私は、「文章を読む」という行為について、「ベルトコンベアーの作業」のようなイメージを持っています。
ベルトコンベアーというのは、運搬物を自動的に移動させる装置です。
「歩く歩道」のような感じで、幅の広い「ベルト」の上に載せられた運搬物が、「始点」から「終点」まで一定の速度で流れていきます。
様々な荷物が、ベルトコンベアーの上を流れているところを想像してみましょう。
「終点」にいる「作業員」が、運ばれてきた物を種類別に「仕分け」します。
aの荷物はAの箱に、bの荷物はBの箱に…というように。
熟練した「作業員」は、てきぱきと荷物を仕分けしていきますが、不慣れな「作業員」は作業を滞らせてしまいます。
荷物は自動的に流れてくるので、処理しきれない荷物が「作業員」のまわりにあふれることになります。
文章を読むとき、人は、目で「文字列」を追います。
そのとき視覚がとらえた「文字情報」は、脳で処理されます。
つまり、「文字列」で表されている言葉を把握し、集積させ、語句や文、そして文章全体の「意味」を理解しようとしていくわけです。
「読む」というのは、目でとらえた「文字列」の「意味」を、脳で総合するという行為です。
目で、「文字列」をとらえることは、容易に可能です。ただ、見ればよいわけです。
しかし、その「意味」をとらえるためには、それとは別の、脳の働きが必要です。
文章を読むのに苦労する人は、「意味」をつかむことが苦手です。
目で「文字列」を追っかけても、「意味」を把握しきれなくなって、その「内容」が頭の中に構成されないのです。
「文字列」の情報は、どんどん脳に送られてくるのだけれども、脳が、その情報を処理しきれないので、「読む」という行為が停滞してしまうわけです。
「ベルトコンベアーの作業」でいえば、次々に運ばれてくる荷物をさばき切れなくなって、途方に暮れているような状態です。
頭の中に「内容」が入っていないわけです。
そうなると、再度、目で「文字列」を追う作業を繰り返さなければなりません。
もう一度、同じ個所に目を通すわけですが、文章を読むのが苦手な人は、文章を読み直すことに大きなストレスを感じます。
読み直しているうちに、話の筋がわからなくなってしまうこともあります。
そこで、文章を読むのが苦手な人は、ゆっくりと「自分のペース」で、「文字列」を追いかけようと考えます。
そうすることで、脳が情報を処理するのに十分な時間を確保できると思うわけです。
しかし、読む速度を極端に落としてしまうと、リズムやテンポが悪くなり、脳の疲労が大きくなります。集中力も落ちてしまい、「内容」が頭に入らなくなってしまいます。
文章を読むのが苦手な人は、そもそも「文章を読むことに集中する」ことが苦手です。ですから、文章を読むスピードを落としてしまうと、文章を読みながら別のことを考えてしまったり、別のことに気を取られたりして、「読む」という状態を維持できなくなってしまいます。
文章を読むときには、「文字列」を追いかける目と、その情報を処理する脳が連動していなければなりません。
ですから、脳に余計な負荷を与えたり、不規則な対応をさせたりしないようにしたいわけです。
「文字列」の情報が、できるだけ「自動的」に脳に入ってくるほうがいいわけです。
そうすることで、脳の働きを、「意味の把握」に特化させることができ、効率よく正確に文章の「内容」をつかんでいくことができます。
どれほど苦痛であっても、ベルトコンベアーの速度を落とすべきではありません。
そこでの「仕分け」を仕事とするならば、基準となる速度で運ばれてくる荷物をさばけるようにならなければなりません。
そのために、訓練していくわけです。
さて、文章を読むのが苦手な人は、どうしたらいいと思いますか?
一定のスピードで、「文字列」の情報をとらえて、脳の中でその「意味」を構成するように「訓練」していけばいいわけです。
もう、わかりますね。
「音読」――声に出しながら読むことが、文章を読む訓練としては、最も理にかなった行為なのです。
(ivy 松村)