今年の都立高校入試の理科の問題に「出題ミス」があったのではないか、という「騒ぎ」が、一部の「関係者」の間で盛り上がっていたのですが、だいぶ落ち着いてきたようです。
私も末席に「参戦」していたのですが、興味深く感じることが多々ありました。
前の投稿のコメント欄で、4月になったら「反論」をくださるといっておられた方がいらっしゃるのですが、いまだに送ってこられないので、まとめの記事を書くことにしました。もう、これ以上この件について書くことはないでしょう。
今回は、一連の「騒動」について「評論」してみたいと思います。
その前に、「対象となる人たち」について呼び方を統一しましょう。「出題ミス」を指摘したがる人は、こぞって「補助線」にこだわります。そこで、便宜的に彼らを「補助線派」と呼ぶことにします。
さて、当該の設問ですが、「補助線派」の人たちは、概ね以下のような「理屈」を主張しています。
1.「図1」に「補助線」を引いて検討すると、選択肢は「イ」か「ウ」にしぼられるが、どちらかといえば「ウ」が近い
2.「図2」から判断すれば、「ウ」の可能性もあるが、「イ」が近い
3. この設問は、「図1」から「ウ」、「図2」から「イ」を選ぶことになり、矛盾している
4.当該の設問は「出題ミス」であり、「ウ」を選んだ受験生にも得点を与え、あらためて合否判定を行うべきである
これに対する私の「反論」は以下のようなものです。
1.中学の教材の内容にしたがえば、「図2」から完全に「ウ」を排除できる
2.「図2」の情報は中学の理科で学習する内容にもとづくものであり、付随している「図1」の情報よりも優先される
3.「図2」によって示された情報を考慮せずに「ウ」を選んでしまった受験生は、中学で学習したはずの内容を問われているのに、それに応答できていない
4.したがって、「ウ」を選んだ受験生に得点を与える根拠はなく、「イ」を正答とする当該の設問は、入試問題として「成立している」
「出題ミス」の定義を考えなければなりません。
入試問題に記載されている「情報」が「精密ではない」というだけでは「出題ミス」とはいえません。
たとえば、「問1」と記載されるべき箇所が「門1」となっていたとしても、それを「出題ミス」であると責めたてるような人はいないでしょう。
「学力判定」に影響を与えるものではないからです。
「情報」が「精密ではない」としても、それが入試選抜の機能を損なっていないのであれば、その設問は入試問題として「成立している」といえます。
「出題ミス」とは、「学力判定」に影響を及ぼす齟齬や欠落が存在し、それによって入試選抜機能が損なわれるようなものをいいます。
当該の設問に記載されている「情報」が「精密ではない」ということは、私も理解しています。
ポイントは、それが「学力判定」に影響を与えうるかどうか、です。
まとめてみましょう。
①中学生の理科の授業では、「図3」のような模式図に「補助線」を引いて、「図1」のような空に見える星の位置を特定するような学習は行われていない
②中学の理科の授業では、「図3」の「イ」の位置に金星があるときには、「図2」に示された金星の形になるということを学習する
③「図2」の情報は高校入試では「必須」となる知識であるが、「図3」に「補助線」を引く行為はそうではない
④「図1」は「ア」を排除するための「ヒント」である
相当高度な知識と技能を持った中学生でなければ、模式図に「補助線」を引いて「イ」と「ウ」を検討するようなことはできません。
それは、禁じられているわけではないので、やるのは自由ですが、高校入試の設問である以上、②を考慮しなければなりません。
そして、結局②によって「ウ」は完全に消去されるのです。
私が「補助線派」に求めたのは、①が、中学の理科で学習するものであるという「反証」でした。それを証明することができれば、当該の設問は「出題ミス」であると納得できたかも知れません。
「補助線派」の「理屈」にとっては、①の指摘が「急所」となりました。
そのため、次のような「反論」がみられました。
・「補助線」を使う入試問題が他にも存在する
少し考えればわかりますが、「補助線」を使うことを争点としているわけではありません。ポイントは、当該の設問は「補助線」に一切依存することなく正答を導くことができる問題であるということ、そして、「補助線」を使ったとしても、そこから得られる「情報」よりも、「図2」から得られる「情報」を優先しなければならないということです。
「補助線派」の「理屈」には、やや杜撰な点が見受けられました。それは、作問上の「精密ではない」点を、無理に「出題ミス」にしようした「強引さ」に起因するものなのだろうと思います。
入試問題を見て、当該の設問の「日付」や模式図における金星の位置と「図1」の照応が「精密ではない」ということに気づいた人がいたわけです。
それが、入試選抜機能を損なうようなものではないとすれば、「ああ、そうですね」と言われて、さらりと訂正されて「終り」です。
そのような軽微な「まちがい」にさえ気づくような学識、知見、慧眼を、世間に知らしめるべく、それを「出題ミス」とする必要があったのかもしれません。
「出題ミス」であると認められるためには、当該の設問の「精密ではない」点が原因となって、「学力判定」が不能になっており、入試選抜機能が損なわれているという「説明」が不可欠です。
すなわち、正答が定まらないという「理屈」が必要だったのです。
そのために、次のような主張がなされたわけです。
・「図1」から判断すれば、解答は「ウ」になる
・「図2」から判断すれば、解答は「イ」になる
・したがって、当該の設問は「矛盾」している
しかしながら、その「理屈」は、存立しません。
くり返しになりますが、優位な情報である「図2」から判断すれば、「ウ」は消えるわけです。
当該の設問は、最終的に解答が「イ」へと収束するような構成になっています。
「ウ」という解答は、「図2」を全く考慮せず、「図1」のみを判断材料にして、さらに高度な天文学的知識を駆使することによって、やっとたどり着くことができるものです。
あるいは、あてずっぽうで選ぶか、です。
「補助線派」の人たちの「理屈」は、当該の設問は「中学生が解く入試問題」であるという事実、現実、原則を無視しています。
少し毒のあるいい方になってしまいますが、天文学的な知識をひけらかすための「絶好の機会」となっているようにも感じてしまいます。
最終的に、当該の設問が「出題ミス」であるという主張を押し通すために、「論」が飛躍し、転倒します。以下のような、情緒的な言動がみられました。
・「出題ミス」のために不合格になったかわいそうな受験生がいる
共感を乞い、同情を迫る言説は、もはや、彼らが信奉する「科学」とは、一切の関わりのない行為です。
端的に、当該の設問は「出題ミス」ではないので、失点してしまった受験生に対して理不尽なことは何も起こっていません。
一応述べておきますが、私は塾の教師です。「合否」という現実には、中学や高校の先生方ではとうてい想像もできないほどに感情をゆさぶられます。論争の道具として軽々しく持ち出す人間に、憎悪さえ感じます。
さて、この度の「出題ミス」の「騒ぎ」には、注目すべき現代的な「動き」がみられました。
すなわち、インターネットを「主戦場」として「騒ぎ」を拡大させ、その「圧力」をもって「目的」達成を目論むという戦略です。
「補助線派」の人たちは連携して、ブログ、ツイッター、ニュースサイト、掲示板等に精力的な書き込みを行っています。
「これだけ議論になって意見が分かれるのだから、やはりミスなのだろう」という「自作自演」的な書き込み、つぶやき、記述も数回確認できました。
このブログのコメント欄も含めて、同一人物の書き込みであると思われるものを複数の場所で確認しています。その文体、語彙、言葉づかい、内容が近似していました。
それらの効果については、評価しがたいものがありますが、いくつかの点で有効でした。
観察できたのは、まず、影響力のある「発言者」に連絡を取り、「補助線派」に引き込むような「動き」です。
そして、彼らから「出題ミス」を非難する発言を引き出すことで、同業者や関係者に「理解」を促しました。
それによって、当初「出題ミス」であるという認識のなかった人を「転向」させたり、付和雷同に引き込んだりすることに成功しています。
狐につままれたような筆致で、「出題ミス」なのかもしれないと吐露する投稿をいくつか目にしました。
日本人は権威や同調圧力に弱い、というのは本当なのかもしれません。
ただ、品のない言葉づかいの、入試のことも教育のことも、そして政治のこともたぶんよくわかっていない議員さんを巻き込んだことは、ネガティヴに作用したのではないかと思いますが。
いずれにしても、「補助線派」の目論見はついえてしまいました。
たぶん、私の「参戦」は、少しばかり趨勢に影響を及ぼしています。
それにしても、「補助線派」の人たちは、いったい何を「目的」としていたのでしょう。その「熱情」がどこから湧いてきたのか、というのは非常に興味深く思いました。
彼らの中心は、高校の教師です。見ず知らずの「かわいそうな受験生」のために一肌脱いだ、という「ストーリー」には鼻白む思いしか感じません。
やはり、教育委員会を屈服させたい、という思いが強くあったのではないかという気がします。これは一般論を述べるものですが、「無理筋」を成し遂げたときほど達成感は大きくなるものです。
(そういった「反骨の気概」自体を否定する気はありません。私の中にも横たわっているものです。)
東京都教育委員会を全面的に擁護するつもりはありませんが、この件に関しては、「補助線派」には「理」がなかったと思います。
さて、いろいろと書いてきましたが、当該の設問に「精密ではない」箇所があったことは、やはり問題です。今後は、「論争」など起きないような入試問題を作っていただきたいと思います。
もし、これが、学会の発表や学術論文であったとしたら、一種の事件です。すみやかに撤回しなければならないでしょう。
しかし、これは「入学試験」の話です。
「入学試験」というものは、「自然科学」の対象ではなく、「社会制度」の一端であると考えなければなりません。
私が一貫して述べてきたように、入試問題として「成立しているか、否か」という視座で判断するべきなのです。
くり返しますが、当該の設問は、入試選抜の機能を損なっていません。
(ivy 松村)