実技4教科は、勉強量だけでは成績を伸ばしていくのがなかなか難しいものです。
現実に、身体能力や運動能力、音感、手先の器用さなど、ある種の「才能」や「素質」の有無が大きな意味を持つでしょう。
しかし、それ以外にも注目しなければならない要因があるように思います。
それは、「高級文化」を理解しようとする「動機づけ」です。
「高級文化」を受容することを自然な行為であると思える生徒は、実技教科を抵抗なく学んでいくことができます。
特に音楽と美術は、「高級文化」に親しみを感じている生徒に有利な教科です。
古典音楽や古典芸能、名画や彫刻、建築、工芸品などに対して素直な感動を覚え、興味と関心を抱く生徒であれば、「テスト」のためにその知識を覚えることさえ、喜びとなるでしょう。
一方、「高級文化」に親しみを持たない生徒は、「理解しがたい奇妙な創作物」を「無理やり押し付けられている」と感じてしまうはずです。
何もピアノやバイオリンを習わせたり、頻繁に博物館や美術館に出かけたりすることが重要だといいたいわけではありません。もちろん、そうした「特別な文化的活動」は、子供たちに良い影響をもたらすでしょう。
しかしここで問題にしたいのは、子供たちが「高級文化」を軽んじたり、遠ざけたりしたくなってしまうようなコミュニケーションのあり方についてです。
私が強く訴えたいと思っているのは、子供たちに「高級文化」に対して否定的な印象を与えないように気を付けなければならないということです。
世の中には、「高級文化」を気に食わないと思う人たちが大勢います。
そのような人たちは、隙を見ては「高級文化」を貶めようとします。
絶対にやってはいけないのは、そのような「ネガティブ・キャンペーン」を幇助することです。
当たり前の話ですが、大人が悪くいうもの、茶化すものに対して、子供たちは同様の態度で接するようになるでしょう。
例を上げます。
・ピカソの絵はまるで子供が描いたようだ。
・クラシック音楽を聴いていると眠くなる。
・能や狂言を見てもよくわからないからつまらない。
・バレエの衣装は気持ち悪い。
個人の感性やとらえ方を否定するわけではありません。
理解できないものはしょうがないと思いますが、それをあえて伝えるべきではないだろうと思います。
あるものの価値を伝える言葉は、興味と関心を引き出します。
しかし、あるものの価値を貶める言葉は、嫌悪や侮蔑の感情を引き出すことになってしまうのです。
生徒たちには、人類がその悠久の歴史を通して普遍的な価値を認めるに至った素晴らしい数々の創造物と、大切な出会いをしてほしいと切に思います。
英数国理社の5教科に目を向けても、同じように学習意欲を減退させかねない言葉が巷にはあふれています。
・虫は気持ち悪い。
・学校で習う英語はおかしい。
・数学ができても社会に出て役に立たない。
・日本の歴史は・・・。
・わからなければパソコンで調べればいいのだから、漢字なんか覚えなくてもいい。
・作者の気持ちでも考えていろ。
ついつい軽口で言ってしまいそうなことばかりですが、口にしないように気を付けなければならないと思います。
「勉強なんかくだらない、でも、しっかり勉強しなさい」などといわれて、意欲がわく人間などいないでしょう。
私は、いつまでも言い続けます。勉強には価値があります。だからこそ勉強するのです。
さて、以降、いくぶん個人的で抽象的すぎる雑感を記します。これは、放言の類です。
フランスの社会学者ブルデューは、「文化資本」という概念を提起しました。
簡単にいうと、「素養や教養、社会的な評価を受ける振る舞いや資格」などのことです。これには「学歴」も含まれます。
ちょっとわかりづらいいいかたかもしれませんが、「高級文化」に親和的な人々は、代々、高い学歴を得やすいという社会構造があるわけです。
ブルデューは「文化資本」が「相続」されることを問題にしましたが、一介の塾教師である私は、ある個人が「文化資本」を蓄積し、「社会的上昇」を成し遂げようとする「第一歩」について考えます。
勉強に頼って「新進」を果たそうとする者は、勉強の対象となる「文化」や「知識体系」に「適応」する必要があるわけです。
今年は「ビリギャル」がヒットしましたが、「下剋上受験」という言葉も「受験界隈」で大きな話題となりました。
「社会的上昇」を果たすためには「受験」を乗り越えなければならない、というのは、この社会の一面の真理なのだろうと思います。
よくわからない「高み」から、そのための努力を揶揄したりけなしたりする人がいます。
しかし、私はその挑戦を、とても尊いと感じるのです。美しいと感じるのです。
そして、一緒に戦いたいと、思うのです。
(ivy 松村)