時代によって、「大学」の「ありよう」が大きく変わります。
高度経済成長期の1960年代、「大学紛争」が起こりました。
大学は荒廃し、授業も、入試も中止されました。
東大は、特に「大学紛争」が激しかった大学です。
当時、大学は「政治運動の場」だったわけです。
バブル期の1980年代には、大学が「レジャーランド」化していると論じられるようになりました。
この頃の大学は、「大人になる前の時期」を過ごすための、いわゆる「モラトリアムの場」としての色彩を帯びるようになります。
学業をおろそかにして遊びまわっている大学生がたくさんいました。
当時、大学は「遊び場」だったわけです。
そして、2010年代は、大学は、まるで「就職予備校」のようであると評されるようになりました。
現代の学生は、「就職のために」大学に進学します。そして、将来の「就職活動」の準備に余念がありません。
仕事も勉強もしないで遊びまわっている一昔前の大学生と比べれば、まったくもって感心すべきことです。
現在大学は、「就職の準備をする場」となっているわけです。
いまや「学歴」は、多くの人にとって、就職を左右する重大な関心事です。
みな、「イイ大学」に入って、「イイ会社」に入りたいと、考えています。
塾や予備校で働く人間は、みな、生徒たちに、なるべく「レベルの高い大学」に入ってほしいと願います。
私も、もちろんそう願っているわけですが、私の場合は、すこし他の人たちと考えが違っているかもしれません。
多くの学生は、「就職のために」大学を目指すわけですが、それのみにとらわれていては、何というか、落語の「オチ」だけを聞きたがるような、ずいぶん「もったいない行為」のように思えます。
「レベルの高い大学」に入れば、「レベルの高い学問」を修めることができます。
たとえば、もし、経済学を学びたいのなら、できれば、「レベルの高い国立大学」に進学したほうがいいと思います。
経済学は、多くの場合「文系」に分類されますが、これを「きちんと学ぶ」ためには、数学の素養が絶対に必要です。
ところが、一部の中堅大学の経済学部では、数学の素養を前提としない授業が行われています。もちろん、「正統な経済学の授業」もあるはずですが、「数学ができなくても経済学部を卒業できる」ような、いわば「ゆるいカリキュラム」となっているわけです。
そこでは、経済学を「きちんと学ぶ」ことはなかなか大変だと思います。
なぜ、数学の素養を前提としない経済学の「授業」が行なわれるのかといえば、その大学の経済学部の入試科目に、数学が含まれていないからです。
つまり、その大学の経済学部は、入学する学生に数学の素養を求めていないわけです。
したがって、数学の素養を前提とするカリキュラムを作成することはできません。
そうしてしまうことは、むしろ理不尽なことであるとさえいえます。
(もちろん、これは「傾向」の話をしているわけで、そういった大学の中にも多くの素晴らしい学部・学科があり、また、素晴らしい教員の方が数多くいらっしゃいます。)
さて、何の話をしているのかといえば、たとえ「看板」は同じでも、大学によって「中身」が全然違うということについてです。
当たり前の話ですが、「中身」のある大学に入ったほうが、深く学べるわけです。
どの大学に進学するかによって、「何を得るのか」が変わってきます。
「学歴」について、「一家言」をお持ちのかたは多くいますが、そのほとんどは「就職」や「生涯賃金」についてのものです。
もちろん、そのすべてを否定するような野暮な考えはありませんが、それでも、大学に行くのに、もうすこし「純粋な理由」を求めてもいいのではないかと思ってしまうのです。
近年、「学歴フィルター」というものが、世間に認知されるようになってきました。
大手の人気企業は、「就職活動」の際に、「あるレベル以下の大学」の学生の「応募」を、事実上拒絶するような措置を取っています。
平たくいえば、「イイ会社」は、「イイ大学」の学生しか採用しないということです。
そして実際、「イイ会社」に入る人は、「イイ大学」の人が圧倒的に多いわけです。
多くの人は、「イイ大学に入る」ことが「イイ会社に入る」ための「条件」だと考えてしまうわけです。
思慮深い視座を持てる人は、「別の現象」をとらえることができます。
新卒社員を募集する会社は、その学生が「どこの大学に属しているのか」ではなく、「大学で何を得たのか」ということを評価しようとしています。
なぜ、「レベルの高い大学」の学生ほど、高い評価を得られるのか。
それは、単純に、「レベルの高い大学」の学生は、「正統な学問」を「きちんと学ぶ」という経験を積んでいるからです。
結局、「学生としての本分」に誠実である学生ほど、「就職」に強いと思います。
「学歴」の本質は、「入学試験」にあるわけではなく、「入学後」にあると考えるべきなのです。
そして、「入学試験」は、その大学で学ぶ「資格」を審査するためのものであると考えるべきなのです。
(ivy 松村)