東京は、冬になると空気が乾燥します。
澄んだ大気のおかげで富士山をくっきりと眺めることができるようになってくると季節の変化を感じます。
でも、私にとって「冬」は、湿気を帯びた重たい冷気が頬を圧迫するような、どんよりとした曇り空の心象と結びついています。そして私は、そんな「冬」を待ちわびているのかもしれません。
もちろん、冬は毎年やってくるのにちがいなく、やはり、それはいかにも東京の冬なのですが、心の中に押し広がるイメージとしての「冬」が私のなかにあるわけです。
今日のように、湿った寒さが訪れた日に、ようやく「冬」になったのだと実感するのです。
ある年の12月に、数日間オランダに滞在しました。
私の中にある「冬」は、オランダの冬の情景なのです。
その直前、数か月イランとトルコで過ごし、日本に帰るために現地の旅行会社で片道航空券を買い求めたところ、ヨーロッパ経由で日本に飛ぶのがもっとも経済的で、しかも、経由地で数日間の滞在が可能なチケットが用意できるというのです。
イタリアの航空会社を利用して少しばかりローマを観光するべきか、それとも、オランダの航空会社を選んでアムステルダムを見物するべきか、真剣に迷いました。
結局私はオランダを選びました。
アンネ・フランクの家とゴッホの絵を目的地としました。
それから、レンブラントやフェルメール。光と影の画家たち。
21世紀を迎えたばかりの世界は、搭乗手続きは今ほど厳重ではありませんでした。
ユーロが流通する直前で、オランダではまだ「ギルダー」という通貨が使用されていました。
空港からアムステルダム駅に着き、町に出た瞬間、空の色が灰色すぎて鮮烈だったことを覚えています。中東の、ぎらぎらの太陽はもう失われてしまったのだ、と思いました。
あまりに寒すぎて、すぐにマフラーを買い求めました。
中東では「外国人」が珍しいので、町を歩くだけでうんざりするほどに注目されました。
ヨーロッパでは、私はありふれた観光客にすぎませんでした。
「一般人」であることが、懐かしくもあり物足りなくもありました。
アムステルダムで、私は「冬」のさなかにいました。
もうすぐ日本に帰るのだ、という思いが、いっそうこの町に「独り」でいることを感じさせました。
アンネの隠れ家。ゴッホのまなざし。
そして、あらゆる店の入口の置かれたクリスマスのポストカード。
すべてが「冬」による演出でした。
決して強がりではなく、あの滞在は私にとって心地よいものでした。
今日のような「冬」の日には、なおいっそう感慨がよみがえります。
昨日は冬至でした。
1日明けて今日の小6の入試演習は、南多摩中の25年度の問題でした。
「冬から春へ」という題の作文が課せられています。
「日常生活の中に驚きをみつけたり興味を発見をしたりするような、好奇心や探求心を持った生徒を南多摩中学は求めているのです。」
中3の入試演習では、早実の16年度の問題を解きました。
国語の問題に池田晶子氏の「孤独」をテーマとした文章が使われています。
「難関の高校入試で出題される人文社会科学系の論説文や評論では、『自我』についての基礎的な知識が読解の前提となっていることがあるのです。」
天気やトピックが、あのオランダの日々に重なりました。
ただ、今日、あのときと違ったのは、「独り」ではないということでした。
(ivy 松村)