桜が満開ですね。
外国では、9月に新年度がはじまる国が多いですが、日本は4月からです。
寺子屋などの江戸時代の教育機関は、人によって入門の日はまちまちでした。
ですから、「学年」や「学期」のような概念は、昔はなかったのです。
ただ、お正月のあとに春が来ること、その春の具体的存在が桜であることは、揺るぎようのないものでした。
明治時代になって、学制が整えられ、「学校」がスタートしました。
最初は4月が年度はじめではありませんでした。
その後、すぐに4月に変更となったのだと記憶しています。
明治維新を迎えた日本は、欧米各国をお手本として国づくりを進めていました。
その欧米の国々は、9月を学校の新年度としていました。
にもかかわらず、日本の新年度は4月からと、決められたのでした。
当時の日本人は、桜の季節を、終わりと始まりの節目とすることに美学を感じていたのかもしれません。
これは個人的な見解にすぎませんが。
民俗学者たちは、桜は「(死と)再生」の象徴であるといいます。
散って、再び咲き誇るさまは、生命の復活を感じさせます。
私たち日本人は、桜の季節こそが、「新しいはじまり」にふさわしいと心の奥底で考えているのかもしれません。
ところで、「桜」と「受験」は非常に近しいものとして人々に連想されます。
「サクラサク」は、合格の換語として広く知られています。
私自身は、春になると、在原業平の有名な一首を思い浮かべます。
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
「この世に桜というものが全くなかったら、春の心は平穏であるだろうに」という意味です。
桜が存在しなければ、咲いた、散った、と心を騒がせることもありません。
この歌は、間接的に、人の心を揺さぶる、はかない美しさを持つ桜を賞賛しているのです。
「受験」というものがこの世になければ、私たちは心穏やかに生きていけるだろうか、と考えることがあります。
桜のない世の中がつまらないのと同じように、受験のない人生もつまらないものなのかもしれません。
さて、「咲く」は自動詞です。咲くのは桜。
このとき、私たちは心を奪われながら新しい季節を眺める存在です。
一方、「咲かせる」は他動詞です。花を咲かせる主語は「自分」。
受験生になったみなさん、来年、桜の季節の前に、きっと、「サクラ」を咲かせましょう。
(ivy 松村)