教育社会学の専門用語に「ヒドゥン・カリキュラム」というものがあります。
学校教育について学んだことがある人は、聞いたことがあるかも知れません。
「隠れたカリキュラム」「潜在的カリキュラム」といういい方をすることもあります。
この用語は、研究者によって定義や使われ方が違うので、実は、ちょっと厄介なものです。
元来は、学校教育における教育カリキュラムには、明示されず、暗黙のうちに施されている教育内容があるということを指摘する枠組みとして用いられたものでした。
例えば、チャイムが鳴り授業時間になれば席に着かなければならない、といったことです。
また、女の子が料理や裁縫などの技術を身につけるように誘導するといった、ジェンダー的なプログラムも、ヒドゥン・カリキュラムとして指摘されることがあります。
つまり、ヒドゥン・カリキュラムとは、わかりやすくいえば、「国語」や「社会」、「理科」といった教科の内容や知識以外に、学校教育を通して「学習」し、身につけさせられている事柄のことです。
この言葉は、上記のような説明から逸脱して使用されることがあります。
「知らず知らずのうちに学習している」という指摘が、多くの研究者に強いインスピレーションをもたらしたために、多様な学校教育の研究の枠組みに用いられるようになったのでしょう。
識者のなかには、教師が意図せずに行った振る舞いから、生徒が、教師の思惑以外の事柄を学んでしまうという定義を用いる人もいます。
それもまた、興味深い一つの議論ではあります。
私は塾の教師なので、少し違った視点で考えています。
塾の教師は、常に効率というものを考えると思います。
少ない時間、コストでなるべく高い学習効果が得られるような指導のあり方を模索しなければなりません。
つまり、生徒には、学習時間以外でも、なるべく学力向上に寄与するように過ごしてもらうようにしなければならないと思うはずなのです。
塾にとって、目に見える直接的な学習指導の体系以外に、学力を伸ばすために、校舎運営をどう設計するのかという視点を持つことは重要です。
その際に、「ヒドゥン・カリキュラム」の議論が参考になるように思います。
ところで、一応念のため弁明しておきますが、私がよく授業で「アホなこと」を言うのは、生徒のみなさんの学力向上のためです。私がアホ、だからではありません。
あるタイミングでブレイクを入れることが、学習にとって効果的であると知っているからです。決して、私がアホ、だからではありません。
さらに、付け加えておきますが、私が「ホットなギャク」を言うのも、もちろん、学習効果を高めるためです。あまりにも当然のことながら、「ホットなギャク」によって、生徒の皆さんの気持ちを引き締めているのです。その効果は絶大です。
生徒のみなさんも、私のギャグが炸裂した後は、「さ、勉強、勉強。」と言って、こちらを見向きもせず、勉強に勤しんでいます。
(ivy 松村)