昨日、高幡不動のだるま市に行って、だるまを買ってきました。
(生徒が右目を入れてしまいましたが、先にどっちの目を入れてもいいそうです。)
小6の生徒たちに、いつも、「合理的な思考」を心がけるように言っています。
「合理性」を求めることで、人間の脳は開発されます。
それから、「合理的」な人間は、同じように「合理的な思考をする人」を納得させることができます。
つまり、「正しく考える人」を、味方にすることができるのです。
生徒のみなさんには、より良い人生を生きるために、「合理的」にものごとを考えることができる人間になってほしいと願っています。
それにしても、このようなことを述べると、「でも、冷たい人間は人に好かれないのでは?」と返したくなる人がいます。
そのような考えは、まったく「合理的」ではありません。「合理的」=「冷たい人間」ではないからです。
ならばお前は「合理的」なのか、と問われれば、面目もありません。私は多分に情動的、感覚的な人間なので、恥ずかしながら、あまり「合理的」であるとはいえないと思います。
しかし、どうすれば入試でより高い得点を取れるのか、という核心的な事柄については、人よりもほんの少しだけ、「合理的」に考えることができると思います。
入試において、何が「合理的」なのか。
当然、それは点数に結びつく「行動」です。
また、あるいは、失点の予防です。
こうすれば点数を得られる、こうすれば失点を食い止められる、という「判断」をして、それを実行にうつすわけです。
「正答」を解答欄に書き込めば、得点となります。
では、「正答」がわからなければ?
もっとも「正答」に近いと「判断」できる内容を書き込みます。
では、「手も足も出ない」問題が出てしまったら?
「正答」かもしれない「何か」を書き込みます。
答案を「白紙」で提出することは、「合理的」ではありません。
それから、作業のスピードを上げることも、「合理的」です。
補助的なメモを用いたり、作業のやり方などを工夫したりすることで、答えにたどり着く時間を短縮できます。
日々の生活の中で、「アイデア」を練ったり、「気になるもの」を探したりすることも、「合理的」な行動です。
自分の欠点を直すように取り組んだり、自分の長所を伸ばすように取り組んだりすることも、「合理的」です。
ただし、「自分」を正しく認識できていなかったり、その「方法」が間違っていたりする場合には、それは「合理的」であるとはいえなくなります。
努力をすることも、「合理的」です。
ただし、「正しい努力」でなければ、それは不合理です。
さて、では、だるまやお守りのようなものに「願かけ」を行うのは、「合理的」なのでしょうか。
そんなものは当てにならない、という人もいるでしょう。
「そういった効果」をまったく信じていない人にとっては、確かに無意味なものなのでしょう。
一方、「そういったもの」に情緒を見出したり、「そういったもの」を通して、人情の機微を感じとったりすることができる人にとっては、少しの「力」になるかもしれません。
自分を良い状態に保つために、ほんのちょっとでも役立つものを利用することは、「合理的」です。
最後に、受験生のみなさん、入試までの日々をどう過ごすのか、よく考えましょう。
残された時間を、「合理的」に使うようにしましょう。
(ivy 松村)