「哲学」とは、日常の中に横たわる疑問を理知的に解明しようとする思考の営みです。
「哲学」の本質は、当たり前だとされていることがらを、頭の中で解体し、その成り立ちや仕組み、存在理由を明らかにしようとすることです。
子供は、大人に頻繁に「夢」を聞かれます。
子供の頃の私は、どのような「夢」を持つべきなのか、いつも思案していました。そして、同時に、「夢」というものの「意味」について考えていました。それは、ある種の哲学的行為だったといえるかもしれません。その思考は今も続いています。
「夢」というものについて、少し哲学的に考えてみましょう。
まず、「夢」とは、誰かに表明したときに共感なり、好意的評価なりを喚起するものであることが期待されているものだといえます。基本的に、人が聞いて不快になるようなものであってはならないのです。
その意味で、「夢」は他人に理解されるものでなければなりません。
ところが、一方で、「夢」は個人的なものです。「夢」はその人の個性や人生観、価値観と深くかかわっていることが多いものです。誰かに馬鹿にされても、「夢」を持ち続けるのは尊いことであると、多くの人が述べています。
(「海賊王になりたい」とか「火影になりたい」というような「夢」ですね。)
それは、実は、人の「夢」を馬鹿にするという行為が、ある種普遍的にみられる事象であることを物語っています。ということは、「夢」が人に理解されないということは往々にしてあり得るのだということです。
(ドラマやマンガでも、「お前なんかが○○になんてなれるものか」というようなシーンはよくありますね。)
よくよく考えると、そこには矛盾があります。馬鹿にされるようなものが、価値があるという逆説です。
そこで、「夢」を評価する基準は一つではないのだろうと考えることができると思います。
また、その基準は変移したり転換したりするようです。さらに、人によって、評価の基準が真逆だったり、倒置したりすることもありそうです。
(「平穏に暮らす」という「夢」を大事にする人もいれば、つまらないものと感じる人もいます。)
そして、年齢や立場や状況によって「夢」の持つ意味は変わり、同様に、人からの評価も変わります。
(「いい年をして、いつまでも「夢」をみているんじゃない」というセリフもよく聞かれるものですね。)
しかし、「夢」の内容は無制限でありえません。何でもいいというわけではないはずなのです。「ライオンになりたい」という「夢」は成立しません。心に思いついた願望や将来像を、勢いに任せて放流してよいというわけではないのです。
ですから、「夢」として認められる「範囲」があるはずなのです。
「夢」とは何かを知るためには、「夢」として認められないものはどのような内容なのか、を捉えなければなりません。まずは「夢」の範囲を考えてみましょう。
そのうえで、「夢」として認められないものが、「夢」として成立しない理由、さらに、「夢」として成立するためにはどのような条件が必要なのかを考えてみましょう。
まず、「ライオンになりたい」という思いは、どれほど強く願ったとしても、「夢」とみなされることはなさそうです。
同じように、「不老不死になりたい」「昔に戻りたい」「誰かを生き返らせたい」といった願望も「夢」として語ることはできません。
つまり、科学的に実現不可能な願望は「夢」ではなく「妄想」であるということになります。
次に、「医者になりたい」という内容につて考えてみましょう。
その希望を叶えるためには、現在の日本では医師免許を取らなければなりません。そのためには大学の医学部に入らなければなりません。もし、そのような人生の道程を無視して「医者になりたい」と言っても、それは戯言にしかなりません。
あるいは、40歳を超えた人が「プロ野球選手になりたい」と言っても、同様でしょう。現実的に、その道は開かれていません。
具体的な手段や方法を考慮しない観念的な未来像は、「夢」であるとは認められません。
「夢」は、それを実現するための可能性が、社会的、制度的、能力的に存在しなければ、ただの空想であると断じられてしまうのです。
(誰かの「夢」を馬鹿にするという心性は、野暮な人に、それが実現する可能性がないと判断されたときに表出するのです。)
次に、「大金持ちになりたい」というのはどうでしょうか。
もしも、「一生懸命働いて」という条件が付けば成立しそうです。しかし、「運よく」ということであれば、認められないでしょう。
「宝くじを当てたい」という内容であれば、共感する人もいるかもしれません。そこには、どれほど低い期待値であっても、宝くじを買うというお金を得る可能性をもたらす行動が存在します。そのおかげで、かろうじて「『夢』の宝くじ」でありえるわけです。
ただ都合のよい未来を空想しているだけでは、「夢」とはいえなさそうです。
どうやら、単に幸運を待ち望むだけの態度は低質であるとみなされ、「夢」として評価されないようです。
「立派な人になりたい」というのはどうでしょうか。
おそらく、誰もが、立派というのは、具体的にはどういうことなのか、ききたくなるでしょう。それが、たとえば「ノーベル賞」という栄誉であるとするならば、「立派な人になりたい」という言葉は、「ノーベル賞を取りたい」という言葉に置き換えられるでしょう。
「夢」は、ぼんやりとしたものではダメで、実現した状態がイメージできるものでなければなりません。
「夢」には、実現したことを確証するものや、達成されたことを示す基準が必要なようです。
それでは、「世界を支配したい」というのはどうでしょうか。
「支配」という言葉には、むき出しの、利己的な欲望が表れています。周りの人々がその欲望を承認することはないでしょう。個人的な思いとして、そのような欲望を持つことはできますが、「夢」として語ることはできません。もし、そのようなことを思う人物がいたとしても、それを「夢」というロマンティックな響きの言葉で表すことはないと思います。
他者を顧みることなく、エゴを満たすことのみにとらわれた考えは、「夢」という言葉で表すことはできないといえそうです。
同じように、「誰かが不幸になること」や「世界の滅亡」も、「夢」として語ることはできません。それはゆがんだ「欲望」、あるいは「邪心」と呼ばれるものです。反社会的、脱社会的な帰結へと至る内容は、「夢」とはいえないのです。
したがって、「夢」とは、たとえ個人が己の中に抱くものであっても、何らかの形で社会の中に位置づけられるものでなければならないものだといえそうです。
では、「世界の平和」はどうでしょうか。
もしも、何一つ世界平和に向けた取り組みを行ったことのない人物がこう述べたなら、なにか白けた気分になるでしょう。偽善的な印象を抱くことになるかもしれません。ただ、言葉によって自分を装飾しているにすぎません。
世の中には、「夢」を人に語って、うっとりすることが目的になってしまっている人がたくさんいます。
逆に、「世界の平和」という同じ言葉であっても、NGOなどに所属し、人生をかけて活動している人が言ったとしたならば、重い言葉に感じられるはずです。
ここでわかることは、「夢」とは、それ自体が評価されるものではなく、意志と実際の行動によって評価されるものであるということです。
「苦労することのない、楽な人生を送りたい」というのはどうでしょうか。
多くの人が、苦痛や困難は避けて通りたいと思うでしょうが、その思いを「夢」と呼ぶのはおかしな気がします。やはり、怠惰であることを望む内容は「夢」にふさわしいものであるとはみなされないようです。
「夢」は、困難や苦労を乗り越えて手にするものであると捉えられているようです。
「散歩をしたい」というのはどうでしょうか。
多くの人にとっては、このような希望は、「夢」であるといえないものだと思います。日常的な行為、達成が容易である内容は、「夢」としてみなさないのが一般的な考えだからです。
しかし、例えば、何らかの理由で幽閉されている人や足を悪くして歩くことができない人にとっては、切実な「夢」となりえます。
「バナナを食べたい」や「海が見たい」というような「夢」にも同じことがいえます。
現代の日本に住む私たちにとって、これらの望みは簡単に叶えられるものです。
しかし、60年前の人にとって、バナナは希少な食べ物で、一度でいいから食べてみたい、と思っていた人も多かったはずです。また、モンゴルやカザフスタンなどの内陸国に住む人々の中には、一生海を見ることのない人もいるでしょう。
ある人たちにとっては何でもない些細な望みでも、時代や住む場所などが違えば、それは「夢」として立ち上がってくるのです。
ある「夢」が、「その人」にとって価値のある経験であっても、立場の違う人にとってはありふれたものであるかもしれないのです。その価値は相対的なものであって、人によって意味づけが違うのだといえます。
「夢」を序列化したり、一般化したりすることはできないようです。
・・・いろいろ考えてみると、少しずつ「夢」というものの輪郭が見えてきます。
(ivy 松村)