20世紀は、ある意味でとても「わかりやすい」政治の状況がありました。
「資本主義」と「社会主義」が鋭く対立しました。
単純な「図式」に当てはめて説明すれば、「資本主義」は、経済活動の「自由」を重視する考えです。一方、「社会主義」は、富の分配を「平等」に行おうという考えです。
簡潔に述べると、前者は「自由」に価値を置き、後者は「平等」に価値を置く考えであるといえます。
20世紀の終盤に、冷戦 が終結し、「資本主義」の「勝利」が確定します。
「資本主義」が優勢となった要因のひとつは、「資本主義」が、部分的に「社会主義」を取り入れて「進化」したことです。
20世紀は、ある意味で、どのように「資本主義」をマネージメントしていくのか、ということが「世界経済」の重要な「テーマ」となっていたのです。
「資本主義」のもとで、際限のない「自由な競争」を認めてしまうと、社会の「格差」が広がってしまいます。
「自由な競争」のもとでは、「資本」をより多く持っている者ほど、より多く儲けることができます。「商品」を生産し、販売することで利益が生まれるわけですが、「資本」を生産設備や宣伝等により多く「投資」すれば、より多く売り上げを伸ばし、より多く利益が得られるわけです。
要するに、「資本家」は、自分が有する「富」を使って、さらに大きな「富」を生み出していくことができるわけです。
一方、「労働者」は、「資本家」が所有する「会社」に雇われて、働きます。
自分の「労働力」を提供することで賃金を得るわけです。
つまり、働いて稼ぐということは、「労働力の販売」であるといえるわけです。
しかし、「労働力」をより高く売ることはなかなか大変です。もっと安くもっと長く働く、という別の「労働者」がいれば、「自分」は、雇われることが難しくなります。
このような「資本家」と「労働者」の「関係性」のもとで「自由な競争」を導入すれば、「労働者」はより安い賃金で長時間労働させられるような「契約」を受け入れるしかなくなります。
「資本家」のほうが、圧倒的に「立場」が強いわけです。
そのため、成熟した「資本主義」の社会では、「労働者」の権利を守るための法律や制度が整備されるわけです。
「労働者」の雇用や賃金・労働時間を保証したり、社会保障制度を整えたり、税率を調整したりするわけです。
で、「資本家の利益」と「労働者の権利」を調整するのが「政治」の役割になるのです。
また、どのように「線引き」するのがよいのか、という考え方が「政治思想」になるわけです。
ものすごくざっくりといえば、「資本主義」の色が濃い「政治思想」は、「資本家」の「自由」を大きくしようと考えます。
一方、「社会主義」の色が濃い「政治思想」は、「労働者」の「立場」を保護しようとします。
結局、「資本主義」の「優勢」がゆるぎないものとなり、冷戦が終結しました。
それによって、「自由」の価値が高まることになったのです。
相対的に「平等」の価値が軽んじられ、「格差」が拡大することになりました。
そして21世紀には、「資本主義」を加速させる「グローバリズム」が、世界を席巻するようになったのです。
ところで、20世紀には、「保守」と「革新」というもうひとつの対立の「構図」が存在しました。
前者は、伝統や国民意識を重視するような立場です。
後者は、制度や体制を新しいものに変えていこうとする立場です。
冷戦下では、一般的には、「資本主義」は「保守」と結びつき、「社会主義」は「革新」と結びつきました。
さて、21世紀に入って、「保守」に対抗する「政治勢力」は一様に「リベラル」と呼称されるようになります。
「社会主義」はほとんど「絶滅」状態になり、「革新」は「死語」になりました。
それは、「冷戦」が終結したことと関係しているのでしょう。
「自由」を英語で「リバティー」(liberty)というように、本来「リベラル」(liberal)というのは「自由な」という意味です。
しかし、「自由」という「価値」をその名に刻む「リベラル」は、もともと「社会主義」を始源とする「政治思想」なのです。
実は、「リベラリズム」という「政治思想」も存在します。ところが、ややこしいことに、「リベラリズム」と「リベラル」は別物です。
報道や評論などをとおして、慣用的に「リベラル」という呼び方が定着してしまったのです。
また、「リベラル」はもともと形容詞なのですが、なし崩し的に「名詞」として使用されることも多くあります。
「リベラル」の特徴のうち、特筆すべき点は、「善良さ」や「人道的振る舞い」を重視すること、であるといえます。
ひとつの顕著な例として、「移民政策」を挙げることができます。
とくにヨーロッパで、「リベラル」の政治家たちは「移民」を寛容に受け入れることを主張しました。
「リベラル」の源流にあるのは、「労働者」の権利を守ろうとする「政治思想」だったわけですが、皮肉なことに、現代、その流れは対岸に行き着いてしまったわけです。
「グローバリズム」と「リベラル」は「呉越同舟」で、「移民」に寛容な社会を目指します。
21世紀は、「グローバリズム」と「リベラル」の狭間で、「労働者」が身を寄せるべき「政治思想」が霧散してしまったわけです。
そのため、「労働者」の多くは「保守」の分流ともいうべき「自国民優先主義」に引き寄せられることになったわけです。
(ivy 松村)