平成30年度の都立高校入試で、「自校作成」が復活することになりました。
喜ばしいニュースですね。
さて、夏期講習第Ⅱ期が終わりました。
夏期講習から参加している生徒たちも、塾での勉強に慣れてきたみたいです。
一部のクラスを除き、国語の授業で漢字検定の対策を行っています。
漢字検定というものを塾の指導の中心に据えることに疑問を持たれる方がいるかもしれないので、説明しようと思います。
一番多い勘違いは、「楽をしようとしている」という見方なのだろうと思います。
「楽かどうか」という考え方をしたことがないので、ちょっとよくわかりませんが、はっきり言ってしまえば、国語の授業をしていた方が「気楽」ですし、気分がいいです。
国語の文章題の解説なんて、あんなに楽しいことはないと思っています。
中3は全員が漢検を受けますが、基本的に授業外で自主的に取り組んでもらっています。
国語の授業では、ここ数日「韻文を含む文章」を扱っています。
今日の授業の題材は和歌でした。
「ある瞬間」を、「言葉」によって完璧な形に切り取ったとき、その「言葉」は1000年後の現代にまで受け継がれるものになる、和歌には、「永遠」を作り出す力があるのだ、ということを柄にもなく、興奮して語ってしまいました。
反動なのかもしれませんが、自分でも「いきいき」しているわけです。
私の場合は、普通に授業をしたほうが、疲れません。
講習の中学1、2年生の国語の授業は、特に「コンパクトさ」が求められるので、普段以上に授業計画が「シビア」になります。ほとんど必ず毎回の「板書案」を作成します。
1回の授業の準備に、30分から1時間くらいかけるでしょうか。多分、塾の人間の中では多い方だと思います。
しかし、「漢検のための準備」には、文章題のさらに数倍の時間と労力をかけています。
今年は、「内容」も昨年から一新しました。昨年もかなり入念に準備しましたが、今年はその倍の時間と労力をかけました。教材の選定には数か月間頭を悩ませましたし、オペレーションやシミュレーションに関しても、何回も修正しました。
本当に「楽」をすることが目的なのであれば、去年と全く同じものを用意すればいいわけですが、「実際の漢字検定の問題」に対応する力を、限られた期間で身につけていけるように、教材の組み合わせや構成を変えることにしたのです。
ちなみに、3級や準2級は、教材費+コピー代も昨年の倍以上になっています。
生徒たちに漢検対策に取り組んでもらっている間も、さながら「執事」のように構えて、「オーダー」に、すぐに対応できるように、教室全体の「様子」を注視し続けています。
具体的に私がどんな「役割」を果たしているのかは、生徒たちはよくわかっているはずです。
大きなやりがいと喜びを感じながらやってはいますが、精神的な疲労も大きくなります。
昔の自分がそうだったのでよくわかるのですが、塾の講師の中に、漢字検定を軽んじて考えていたり、冷ややかな目で眺めていたりする人が多くいるはずです。
一部の高校の併願優遇や推薦入試で活用できるとはいえ、「受験勉強」という「目的」から考えたときに、「直接的なメリット」は少なく、「効率的な活動ではない」と思えてしまうわけです。
その考えはよくわかります。私も昔は「中身を知らずに批判する人間」だったのですから。
漢字検定に力を入れるのには、「別の理由」があるからなのだろうと思われてしまうことも理解しています。おそらく、「効率」を考える人ほど、奇妙に思えるはずです。
また、教師が「解説」をするでもなく、ひたすら漢字の問題を解かせて、漢字の練習をさせているわけです。「そんなの、自分でできる」と思う人もいるはずです。
最初に「発想」が思い浮かんだのは、数年前にある個人塾で漢検に携わったことがきっかけでした。
そのときに、これは学習意欲を醸成するのに有効なイベントとして使えると確信しました。
そして、「漢検」の学習内容には、実は「かなり高度な知識」が含まれているということを知ったのです。それまでの私は、多くの塾講師と同じく、「漢検」に「無知」でした。
過去に、私が受け持った中3の受験生のクラスでは、夏期講習で漢字や知識の「確認テスト」を毎日課していました。かなり深い内容の知識を大量に覚えなければならず、生徒たちはそのための準備と、間違い直しや復習に、連日1時間近くの時間をかけていました。
たぶん、同じような指導を行っている塾はたくさんあると思います。
3級や準2級の漢検対策の内容は、進学塾で行う「確認テスト」と遜色ないレベルの問題が並べられています。
また、漢検対策の問題集を確認してみればよく分かることですが、単純な知識を問う問題ばかりではなく、思考力や分析力を必要とする問題も随所にちりばめられています。
むしろ、国語の総合的な学力を養成するうえで、漢検対策を取り入れることが非常に有効だと判断しました。
受験生が、夏期講習の「確認テスト」の替わりに漢検の教材に取り組むことは、このうえなく効果的な学習になり得るのです。
それから、「授業を行わない塾」があるということを知ったのがもうひとつの契機でした。
それを知ったときには非常に驚きましたが、考えれば考えるほど「妥当」なのです。
「教育」には、2つの「柱」があるといえます。
ひとつは、「知識や方法」を伝授することです。
もうひとつは、相手の「行動や考え方」を陶冶していくということです。
塾の人間は、どうしても前者に傾斜しがちです。それは、学習塾は、授業の技術、すなわち「話術」こそが、もっとも価値のある「商品」であるという通念の上に成り立っている「産業」だからです。そのために、「私たち」は競って「教務力」の宣伝を行うわけです。
一方、「授業を行わない塾」は、生徒にひたすら「自習」をさせるわけです。もちろん、教材の手配や学習環境の整備に細心の注意が払われています。
そこには非常にシンプルな事実が示されています。つまり、「自分で勉強できるようになれば、塾教師の『話術』など必要ない」ということです。
一般的な生徒たちがなぜ「塾」に通うのか、といえば、自分で勉強できないからです。
自分ひとりでは勉強できないので、「誰か」に教えてもらうわけです。
しかし、ひとりで解説を読み、ひとりで問題を解き、ひとりで答え合わせをして、ひとりで復習して、ひとりで再度確認ができるのであれば、「『塾』はいらない」のです。
「授業を行わない塾」は、「ひとりで勉強できる力」を養っているわけですが、塾は「話術」を売るところであるという固定観念にとらわれてしまうと、その営業形態は「パラドクス」を内包しているように思えてしまうでしょう。
しかし、「教育のもう一面」に気づくことができれば、「自習」を促すことで学力を向上させる「指導」は、「教育事業の本質」に依拠したものであることが理解できるはずです。
学習塾の「存在意義」というものについて、根源的に思索を巡らせてみたとき、極めて単純な「答え」に行き着きます。それは、「勉強をさせる」というものです。
「塾に行って、ひとりで勉強して帰ってくるなんて、ばかばかしい」と思ってしまう人は、大勢いると思います。
ちょっと角度を変えてとらえ直してみましょう。
「ひとりで勉強できるようになったなんて、なんて素晴らしいことなのでしょう。」
現実には、多くの生徒にとっては、塾や予備校の指導は必要です。
良質の塾や予備校には、効率的な指導法や教授法、圧倒的な受験テクニック、徹底的に分析された入試情報、綿密な構成のカリキュラム、洗練された学習マニュアル・・・などが蓄積されています。
理想の塾のあり方を模索する中で、「教授型」と「自習支援型」の「ハイブリッド」な形を作っていくのがいいのではないかと考えるようになりました。
漢字検定は、その対策をとおして、学力を向上させてくれます。
また、「自習文化」を熟成させていくことが、目的の一つとしてあるわけです。
そして、自習の方法を身につけてもらうための「訓練」であると位置づけているものです。
他にも細々とした理由はありますが、大まかな理由は以上のようなものです。
「解説授業をしないなんて、手抜きだ」とか、「自習なんて、自分でできる」と考える人がたくさんいるのはわかっています。
私が(勝手に)「お手本」にさせてもらった塾も、その部分で苦労をされているようにみうけられました。
「自習なんて、自分でできる」という考えは、ある意味で「当然」なものですが、ちょっと危うい気がします。「柱」が一本、完全に抜けています。
「自習の価値」を貶めながら「教師の話術」を過度に期待するようになるので、依存性の高い不安定な「学習モデル」が形成される危険性があります。
たまに、「自分の成績が悪いのは、教師の教え方が悪いからだ」と考えている人がいます。
もちろん全てを否定することはできませんが、結局そういう考えが、学力の伸長の妨げになっているのではないか、と思うことが多くあります。
確かにその教師の教え方はまずいのかもしれませんが、自分で学力を伸ばす方法はあるのです。「自習」というものを「不当な労働」とみなすような考え方をする人は、もっとも万能で応用性が高く、柔軟な、優れた学習方法を放棄しています。
夏期講習で、生徒たちは「自習の仕方」を身につけています。
夏期講習第Ⅲ期は7月31日からです。
さらに、はりきってまいりましょう。
(ivy 松村)