今日もほとんどの生徒が自習に来ました。
本当に、勉強が板についてきました。よく勉強しています。自習姿に見入ってしまうほどです。
勉強のやり方や取り組み方などについて、あまり注意をすることがなくなって、なんとも寂しいような、うれしいような気分です。
多くの生徒が10時半まで勉強して帰ります。
生徒には、塾での勉強時間を、お家の人と相談するようにいっています。
10時半までがんばって勉強したい、ということを伝えて、じゃあ、がんばってきなさい、ということであれば、勉強させてもらえるということに感謝して、しっかり勉強しなさい、といっています。
中学生があまり夜遅くに帰宅するのはよいことではありませんし、生活のリズムを考えて、何時までに帰ったほうがいいということであれば、できるだけの勉強時間をがんばって取り組みなさい、といっています。
勉強は、ただ単に長時間取り組めばそれでいいというわけではありませんが、高校に行くまでの間に、長時間勉強できるだけの「耐性」を身につけることはとても大切です。
高校で、大学受験の(特に国公立大学に入るための)「勉強量」に押しつぶされてしまうのは、自習の能力がない生徒です。それは、 「勉強量」に根負けしてしまうということもありますが、「耐性」のない生徒は、時間の中で、求められる「勉強量」をさばけなくなっていくからです。
その理由は非常に単純です。
同じく5時間を有した生徒であっても、5時間をまるまる勉強に使う生徒がいる一方で、5時間のうちの2時間だけしか「勉強状態」を維持できない生徒がいるわけです。
あるいは、5時間分の勉強を、ダラダラと10時間かけて終わらせたりしているわけです。
必要な「勉強量」を、必要な時間でこなせないのです。
5時間の間、独力で勉強し続ける能力が身についていないからです。
勉強に必要な能力として、よく挙げられるのが「集中力」です。
少し前から、この言葉に違和感を持つようになりました。
勉強をしていて、他のことに気を奪われたり、もの思いにふけったり、手わるさや落書きをはじめたり、誰かに話しかけたり、ちょっかいを出したりしてしまう生徒がいます。
一般的には、これは、その生徒に「集中力」がないからだ、と説明されます。
集中というのは、物質や意識が狭い範囲に集約されたり凝縮されたりするさまをいいます。
「勉強に集中する」というのは、他のことが気にならないくらい勉強に意識が収束し、没頭している状態を指すことになります。
しかし、それは、「集中」ではなく「夢中」です。
スポーツの世界でも「集中」という言葉はよく使われます。
勝負の世界で「集中」を欠くことは、負けにつながります。
スポーツなどでは、ある局面やある時間の範囲の中で、注意や観察、反応や対応を怠らないように行動することを「集中」という言葉で表します。「残りの5分間を集中して守り切る」というように。
つまり、「集中」という言葉は、こうした文脈上では、「弛緩した精神状態」の対義語として用いられているわけです。
そして、勉強における「集中」も、これと同じ意味内容で使われているわけです。
そう考えると、「5時間勉強に集中する」などという状態は、ちょっとあり得ないと思えてきます。
スポーツの試合でも「集中」を維持し続けることは困難なのに、勉強の間、不断に「集中」し続けることなどできるでしょうか。
また、勉強には、(もちろん「緊張」が必要な場面も多々ありますが)「リラックスした状態」で行うことが理想的な場合もあります。そのほうが、知識をしっかりと記憶に残すことができたり、思考力を存分に発揮できたりすることがあるのです。つまり、一般的に考えて、「集中」の対極の状態で勉強することが望ましいといえる状況も考えられるわけです。
さらにいえば、ボーっとしない、手わるさをしない、私語をしないといった程度の行動を抑制することを、「集中」という言葉で表すべきなのだろうか、と思うわけです。
思うに、継続して勉強に取り組む能力を表すのに適切なのは、「集中力」ではなく「持久力」(あるいは「持続力」)という言葉なのではないでしょうか。
中1、中2の生徒の、「2学期のテーマ」は、ずばり、「勉強の持久力の向上」です。
中3は、夏期講習を通して、高レベルの「持久力」を養いました。
中1、中2の生徒には、漢検、数検、英検といった各種の検定や定期テスト勉強を通して、「持久力」を磨いてもらっています。
私が、生徒のみなさんの「帰る時間」を非常に気にするのも、そのためです。
「疲れたからもう帰る」ということを、みなさんは当たり前に思っているかもしれませんが、それは自分を甘やかしていることとつながっています。
必要な「勉強量」をやり切ろうという意志で勉強しているのではなく、「自分の都合」で「勉強量」を減らしているのです。
マラソン選手が、「疲れたから」といって、コースの半分しか走っていないのに帰ってしまうようなものです。
マラソン選手は、持久力を身につけるためにどのようなトレーニングをするでしょう。
長い距離を長時間走れるようになるためには、なるべく長い距離をなるべく長時間走る練習をするしかありません。少しずつ、走る距離、走る時間を伸ばしていくのです。
苦しい練習を上乗せしていくことで、少しずつ、自分の能力を向上させていくのです。
1時間勉強しただけで疲れてしまう人は、1時間勉強しただけで帰ってはいけないのです。
そういう人は、1時間半勉強してから帰りましょう、という話をしているのです。
たまに、「勉強は効率が大事」などとドヤ顔でいう人がいますが、その言葉に意味はありません。それは、単に、勉強の「中身」が大事、といっているだけですよね。わざわざ口にするほどのことではありません。
しかし、もしも、「短時間」ということを重視して言っているのなら、そこには、うすっぺらい価値観がにじみ出ています。「点数」という目の前の結果だけを「目的」としているから、「効率」を一番に考えてしまうのですね。
100キロのスピードで、100メートルしか走らない車を自慢しているわけです。それで「楽ちんだ」と言ってうかれているわけです。
自分自身が、この先ずっと「成長」してくのだという「ヴィジョン」を持てる人は、何百キロ先の目的地であっても、走り続けて、到達しようと考えるでしょう。
その「走り」のなかで少しずつ自分の能力を高めていけば、きっとたどりつけることを理解しているのです。
そのために、「今日という日」に、走る訓練を自らに課すのです。
「もう疲れた」というところから、さらにひと踏ん張りしてみよう。
限界と思う「先」に行こうとするがんばりが、きみの「持久力」を育てていくのです。
(ivy 松村)