◎「はじめての詩」 荒川洋治
※文章の構成「起承転結」
・「起」・・・中学のころ、「山林に自由存す」に出会った
・「承」・・・家の周囲にある松林に中で、「山林」を感じ、詩をつくった
・「転」・・・詩の中の「山林」と自分の「松林」は同じではないと気づく
・「結」・・・文学の言葉は、普通のものではないので、普段見えないものが見えてくる
・中学生になってから、国木田独歩の詩「山林に自由存す」を読んだ。
・「この僕の所にある松林こそ「松林」なのだ、これはうれしと思った。」
・「遠くにあるものではなくて、今ここにあるものを摘み取られ、高々と掲げられたような気持ちになった。」 〈直喩法〉
(自分の身近にあるものが、意味のあるものとして注目され、取り上げられたような気がしてうれしい。)
・家の周囲にある「松林」に入っていって、独歩の詩の「山林」の世界に入った。
・「『あ、あれ(山林)はこれ(松林)だ!』と思えたときはうれしいものだ。」
・そのときに、松林の詩(らしききもの)がいっぱい生まれた。 〈擬人法〉
(作品を、自分なりに解釈するということ)
(すぐれた作品に触発されて、自らも創作を試みるという行為)
・しかし、独歩の詩の「山林」と、筆者の「松林」は同じではなく、違うものである。
・独歩の「山林」は、作品の中だけにある、どこにも実在していない「文学的な存在」である。
・「文学的な存在」を身近に思ってもよいが、それは身近なものとは違う。
・「その違いが僕をさらに、引き寄せていくのである。」
(「文学」に描かれたものは、実は、読者の身近にあるものとは違う。しかし、その「違い」は魅力的なものなのである。)
・文学の言葉は、普通のものに見えるけれど、そうではなく、夢のようなものだ。
・「だからこそ、そこに普段なら見えないものが見えてくるのだ。それはとても楽しいことだ。」
(「文学の言葉」は読者の想像をかきたて、「普段なら見えないもの」を見せてくれる。)
この評論文には、文学作品を読むということには、「自分なりに作品を味わう」という楽しさがあるということが述べられています。
その一方で、文学作品のありようは、書かれた「作品」の中だけにしか存在しないのだ、ということも述べられています。
そんな「違い」があるからこそ、「あ、あれ(山林)はこれ(松林)だ!」と思えたりするのかもしれませんね。
◎「詩四編」
※「りんご」 山村 暮鳥
両手をどんなに
大きく大きく
ひろげても
かかへきれないこの気持 〈体言止め〉
林檎が一つ
日あたりにころがつてゐる
この詩は、「口語自由詩」です。
「かかへきれない」「ころがつてゐる」のような「歴史的仮名づかい」を用いていても、使われている言葉は、すべて現代語です。
「口語」か「文語」の分類は、「仮名遣い」ではなく、使われている言葉で決まります。たとえば、「~けり」「~たり」「~なり」のような現代では使わない言葉が用いられるものが「文語」です。
「かかへきれない」→かかえきれない
「ころがつてゐる」→ころがっている
前半は作者の「気持ち」、後半は「情景」が描かれています。
「かかえきれないこの気持ち」がどのようなものなのか、示されていません。
「かかえきれない」ほどに「重たい」気持ちなのか。
「かかえきれない」ほどに「あふれる」気持ちなのか。
「林檎」の印象も、対照的なとらえ方ができます。
日の光を浴びたつややかな「林檎」なのか。
たった1つ、さみしく転がり落ちた林檎なのか。
この詩は、多様なとらえ方が可能な詩です。
それが、「はじめての詩」という評論を読んだ後に鑑賞する作品として、教科書に掲載された大きな理由となっています。
(この詩をあつかった授業で教師が生徒にこの詩の印象を尋ねた際、ほとんどの生徒は「温かい雰囲気」を感じ取っているという報告がなされています。しかし、識者の間では、作者である山村暮鳥の恵まれなかった境遇から、この詩は、暮鳥の暗い心情を読んでいるという解釈が有力であるとされています。)
※「山のあなた」 カール・ブッセ 上田 敏 訳
山のあなたの空遠く
「幸」住むと人のいふ。 〈擬人法〉
噫、われひとと尋めゆきて、
涙さしぐみかへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸」住むと人のいふ。 〈対句法・反復法〉
この詩は「文語定型詩」です。
すべての行が「七・五」の音数でそろえられています。
(ドイツ語の詩を、その味わいを損なうことなく「文語定型詩」として日本語に訳すのですから、ものすごい技術と才能です。)
「さひはひ」→さいわい
「いふ」→いう
「かへりきぬ」→かえりきぬ
「なほ」→なお
「あなた」というのは、「こなた」「そなた」「どなた」に対応する言葉ですね。
いわゆる「こそあど言葉」で、「あ」が用いられるのは、自分から「遠い」対象を示すときです。ですから、「あなた」というのは「遠くの方角・場所」を意味しています。
「あなた」は、現代では「かなた」に置き換えられています。
3行目と4行目は「私もみんなと探しに行ったが、涙をうかべて帰ってきた」という意味です。
文語では、文末に「ぬ」があるときは、「~た(だ)」と訳します。
ですから、「かへりきぬ」は「帰ってきた」という訳になります。
・山の向こうに幸せがあると「人」がうわさをしている。
・自分も、それを信じる「ひと」と同じように行ってみたが、(何もなくて)失望して帰ってきた。
・(今度は)山の「さらに」向うに幸せがあると「人」がうわさをしている。
人間は、ここではない「どこか」に「幸せ」があると、信じてしまう存在なのかもしれません。
「おれも眠らう」 草野心平
るるり
りりり
るるり
りりり 〈反復法〉
るるり
りりり
るるり
るるり
りりり
るるり
るるり
るるり
りりり
―――
この詩は「口語定型詩」あるいは「口語自由詩」です。
音数をそろえているので「定型詩」であるとみなすこともできます。
が、決まった形にあてはまらない「自由な形式」で書かれた詩である、という構成上の特徴から考えると、「自由詩」であるということもできます。
(学校の先生がどちらの解釈をしているのか、説明をよく聞いておきましょう。)
「ねむらう」→ねむろう
この詩は、2匹のカエルの鳴き声です。
最初は、交互に鳴き声を発しているのですが、しだいに「りりり」の鳴き声が遅れていきます。だんだん眠たくなっているのです。
最後の「―――」はあたりが静かになったことを表しています。
つまり、「りりり」と鳴いていたカエルが寝てしまったということですね。
「るるり」と鳴いていたカエルも、「合唱」の相手がいなくなってしまったので、鳴くのを止めてしまいました。
そして、「おれも眠ろう」と思ったのかもしれません。
「蝉頃」室生犀星
いづことしなく
しいいとせみの啼きけり 〈擬音語〉
はや蝉頃となりしか
せみの子をとらへむとして
熱き夏の砂地をふみし子は
けふ いづこにありや
なつのあはれに
いのちみじかく
みやこの街の遠くより
空と屋根とのあなたより
しいいとせみのなきけり 〈反復法〉
この詩は「文語自由詩」です。
「いづこ」→いずこ
「とらへむ」→とらえん
「けふ」→きょう(今日)
「あはれ」→あわれ
・作者は、せみが「啼いた」のを聞いて、幼いころ夢中でせみをつかまえようとしていた夏の日に思いをはせます。
・そして今、自分がいる都会の、空と屋根のむこうからもせみが「しいい」となくのを聞いています。
「しいい」という擬音語は独特です。ふつう、せみのなき声は「ミーン、ミーン」と表します。
3行目「はや蝉頃となりしか」は「もう、せみ(のなく)頃となったのか」という意味です。
4行目「とらへむ」の「む」は「~しよう」という意味ですから、この部分は「捕まえよう」という訳になります。
6行目「けふ いづこにありや」は「いま、どこにいるのだろうか」という意味です。
7行目「なつのあはれに」の「あはれ」は、「しみじみと趣き深い様子」を表す言葉です。
古文では、よく出てくる言葉なので、覚えておきましょう。
8行目「いのちみじかく」というのは、せみの成虫の寿命が短いことを述べています。
4行目~8行目は、「現実」ではない頭の中にあるイメージや思いを描いています。
この部分はひらがなが多用されています。
(「熱き夏の砂地」という少年時代の「現実の」過酷さを暗示する部分には漢字が使われています。)
一方、1行目~3行目、9行目~11行目は漢字が多用されていますね。
2行目では「啼きけり」となっていた表記が、11行目では「なきけり」となっています。
2行目は、作者は、「蝉頃」の季節が来ていることを知って驚いています。その強い印象を「啼」という字で表しているように思います。
一方、少年時代に思いをはせた後に、我に返った作者は「なきけり」と表しています。
以上、「はじめての詩」と「詩四編」について解説をしました。
この「詩」の単元では、さまざまな種類の詩に触れ、思うままに詩の内容を感じ取ったり、言葉に込められた本当の意味を考えたりしながら、表現について学びます。
定期テストに出題されやすいのは、人によって解釈に違いが出ない部分です。
それは、詩の分類、表現技法、仮名遣い、言葉の意味などですね。
(また、先生によっては、感想や、自分なりの解釈を記述する問題が出されることも考えられますね。)
しっかりと復習しておきましょう。
(ivy 松村)
すごく参考になりました。ありがとうございます。テスト勉強がんばります。
こちらこそ、コメントしてくださって励みになります。
テスト、がんばってください。
追記:この塾の生徒の中学の試験では、作者名が問われました。
確認しておいた方がいいかもしれません。