前回までのブログで、日野市西部にある4つの中学校の、近年の中3の2学期の内申点のデータを見てきました。
四中、二中、七生中、そして平山中は、ivyの通塾圏にある中学校なので、これらの中学の分析はどうしても必要でした。
残りの4校のデータはそろっていますが、掲載は控えようと思います。
なにしろ、とても大変な作業ですので、こればかり続けてしまうと、たくさんの仕事が滞ってしまうのです。
もし、知りたいという方がいれば、お知らせいたしますのでおっしゃってください。
このブログでは、これまでにも有益な情報や多様な資料等を積極的に発信してきました。
そういった行為は他塾に利を提供することになるし、いわゆる「フリーライダー」を生み出してしまいます。
その辺を不思議に思う人もいるようです。
「ここから先は企業秘密」というような物言いがあまり好きではないのです。
世間の関心を引こうとする、戦略としての「企業秘密」という観念が、ちょっと肌に合わないのです。前時代的な感性というか、20世紀的なコマーシャリズムというか。
で、その核心部分もそれほどたいしたものではないことも多いですよね。
「情報化社会」が普遍化しつつある現代では、情報を秘匿することよりも、情報を発信することでこそ個人や企業の価値は高まるのだと思っています。
まあ、要するに、そこに自分の存在意義を見つけるかどうかなのだと思います。
誰かの役に立ちたいという動機と、自分を表現したいという望みが、私の根底に横たわっているのだと思います。(ポール・ウィリスのいう「symbolic creativity」が、ふと思い浮かびました。)
ただ、以前にもこのブログで言及したことがあるのですが、社会的に否定的な作用が懸念される場合には、あえて情報を出さないこともあります。
その辺の線引きは、私個人の基準に従うことになりますが。
実は、今回の「中学の内申点」の記事の位置づけは、
・教科書、「ワーク」、教材の調査 →教科カリキュラム、内容の確認
・定期テストの調査 →中学の先生の実像にせまる
・内申点の調査 →評定の出され方を見極める
という一連のプロジェクトの後半部分の報告のようなものです。
高校受験(特に都立受験)にとって、中学校の成績の比重が高まっています。
にもかかわらず、年々成績評価が厳しくなっているという印象がありました。
そこで、実態を把握するために、公表されている資料や生徒からの聞き取りをもとに調査を行いました。
もちろん、それを学習指導、受験指導に活かすことが最も大きな目的です。
東京都教育委員会のホームページから、自由に、東京都各区市の中学校の評定の割合を知ることができます。
また、日野市のホームページで各中学校の生徒数を知ることができます。
全体の数と割合がわかっているので、それぞれのサンプルの特定が可能となります。
これは、「誰にでも」できることです。
中には、中学校の先生に知られたらまずいのではないか、と感じている人もいるかもしれません。
生徒にも、学校の先生に知られたらどうするんですか、と聞かれました。
どうもしないし、何も困らない、と答えました。
学校の先生を「刺激」するべきではないという感覚は、ある種の教条に縛られたものだと思います。それは、学校の先生を怒らせるとロクなことがない、という経験則に基づいているのかもしれません。
また、報道などの際にその一端を垣間見ることができますが、世間も、当人たちも、漠然と学校の先生は保護されてしかるべき存在であると考えているふしがあります。
もし、学校の先生にとって都合の悪い情報は出してはならないと考えている人がいたら、ちょっと麻痺していると思いますよ。
もし、それが許されないというのであれば、教育委員会もデータを公表したりはしないはずです。
自信をもって、生徒たちの評定をお決めになる先生方であれば、動じることなく堂々と振る舞われるでしょう。
たとえば、の話ですが、私のブログを見て、ある学校の先生がおかしくなって、受け持っている生徒全員にひどい評定をつけたとして、それは私の責任でしょうか。
どう考えても、「その先生」がおかしいし、その先生を放置していた学校や上の責任者のせいだと思いますが。
もちろん、世間の常識に照らして考えて、そんなことが起こるはずもありません。
ただひとつ、核心を述べます。
人を評価する立場の人間が、どうして人に評されることから逃れられるというのでしょうか。
さらに、私は、見過ごされてしまっている「あること」を示唆したいと思うのです。
それは、一部の中学校の先生の評定の出し方に、あまりにも葛藤がなさすぎる、ということです。
もちろん、学力が評定に達していないときには、優秀な成績をつけるわけにはいかないでしょう。評定を「大盤振る舞い」するのが「よい教師」というわけではありません。
しかし、一部の中学校の先生は、生徒の学力を「対象」として見すぎているのではないかと思うのです。
たとえば、100人の生徒を受け持ち、そのうち「5」の評定を与えたのが2人だったとして、教師として簡単に納得できるものなのでしょうか。
今年は「できる生徒」が少なかった、と評論家のような目線で、あまりにも簡単に低評価を下す先生がいるような気がするのです。
私にはそれが不思議です。
成績を確定するそのときに、生徒に低い評定しか与えられなかったとしたら、それは教師としての「敗北」なのではありませんか。
自分が、彼らの学力を引き上げることができなかったということなのではないのでしょうか。
成績評価を、生徒統制のツールとして使う中学の先生がいます。
実際に、「指示を聞かん奴は成績を2にするからな!」と、恥ずかしげもなく口に出す教員がいるそうです。また、中学生に対して、成績評価を報復に使う教員もいるようです。
私は「中学校の先生」全体を非難したい訳ではありません。
先生たちご自身がよく知っておられるはずですが、中学校の先生の中に「痛い人」がいます。
教育委員会の評定状況の調査の根幹にあるのは、おかしな評定をつけようとする先生を監視する必要性なのだと思います。
公立の中学校にはさまざまな「背景」をもった生徒が通っています。
私たちが思う以上に、「中学校の先生」という仕事は過酷なのだと思います。
私は、学校の行事や部活などを「外部委託」し、学校機能を縮小化するべきだと思っています。それが無理なのであれば、高度な「分業体制」を作るべきだと思っています。
学校の先生方は、もっと教務「だけ」に集中してもらうべきなのだと思います。
塾の機能も含めて、教育制度の再設計が必要だと考えています。
しかし、いずれにしろ、私は塾の教師ですから、「受験」から目線を外すことはできません。
生徒たちの「不利」を何とかしたいと思っています。
日野市の中学生は、他の市区に比べて、成績評価が「厳しい」状況にあります。
私が望んでいるのは、学校の先生が成績をつけるときの基準がもっと透明に、公正になるということなのです。
大阪府が、「絶対評価」の「補正」のために、全国学力テストの結果を内申に反映させる評価基準を導入しようとしていることがニュースになっています。
賛否両論あるようですが、私は、ひとつの可能性を示していると思います。
(ivy 松村)