英語に、「Good question.」という表現があります。
これは全面的な褒め言葉ではありません。答えに窮してしまう、考えさせられる質問を受けたときに、「即答できない」ということを相手に伝える慣用表現です。
もちろん、「良い質問」という意味で使うこともできますが。
さて、生徒のみなさんに、折にふれて「質問」を受け付けるのですが、「大丈夫です」という声が返ってきます。それなのに、全然大丈夫ではないことも多々ありますね。
答えがわからなければ、解答冊子を見て、「正解」を確かめることができます。
自分で「正解」を知ることができるのですから、それをわざわざ人に聞くのは、冗長な行動に思えます。
ですから、「質問」をする意味がないように思えるのかもしれませんね。
もしかすると、一部の人は「質問」というものを勘違いしているのかもしれません。
「質問」は、「わからないこと」を尋ねるものではありません。
もちろん、世間一般では、正解や解決法を聞き出すために相手に尋ねる行為を「質問」といいます。
しかし、塾の「質問」は、そういったものではありません。
塾では、「わからないこと」を訊くのではなく、「わかるため」に訊きくのです。
先日、授業後に中3の生徒に質問をうながしたとき、ある生徒が、「ワーク」に載っていた明治の元老たちの写真を指しながら、「この辺の人たちの関係性がよくわからない」と言ってきました。
実は、これ、「いい質問」なのです。
もちろん、全く「質問」の形式になっていない声かけですから、そこに関しては、見直すようにいました。
しかし、このようにいってもらえると、彼が求めているのも、そして、私が答えるべきものが明確になるのです。
彼は、西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文、板垣退助、大隈重信といった人物たちの「関係性」を通して、この時代を把握しようとしていたのです。
私は、「関係性」の説明の中に、単元のポイントを織り込んで解説しました。
逆に、散漫な「相談」というものもあります。
たとえば、「英語がわかりません」、「地理が難しいです」といわれれば、全部を説明するしかなくなります。
学校で習ったはずの内容を、またもう一度すべて説明するとしたら、お互いに無駄が多くなってしまいますよね。
まあ、ほとんどすべての詳細な説明を求めている人ももちろんいるのでしょうが、たとえば、7、8割ぐらい理解できている人に対して、一から全部を説明するはやはり冗長ですよね。
往々にして、教える方は、質問者が本当に理解しているのかどうか、神経質になりがちです。ですから、「この辺がわからない」というようにいわれると、出題される可能性のある事項を、網羅して話すことになってしまうのです。
「必要ない話」が長くなってしまうと、ちょっと辛いですよね。
「質問」するときには、相手の「説明」の「範囲」を限定するような訊き方を心がけてみましょう。
「質問」は、わからないからするのではありません。
そう思っている人は、意識を変えていく必要があります。
自分の理解の助けになるような、ヒントや方法論を、教師に「述べさせる」ためにするものです。
「いい質問」とは、相手の応答を詰まらせるものではなく、自分の求めている方向性に、相手の言葉を引き出すような問いかけのことです。
説明の内容を相手にゆだねるような、受け身の心持ちでいると、「いい質問」はできません。
「いい質問」をするには、まず、考えることが必要です。
どう訊けば、自分の求めていることを話してくれるのか。
もし、自分の期待以上の情報や知識を、教師から引き出すことができたら、それは「最高の質問」ですね。
自分から主体的に、「質問」を考えてみましょう。
(ivy 松村)