「違う」という動詞は、一部の人たちに形容詞であると誤解されているようです。
そのために、文法に違反する使用法が生み出され、さらに、それに追随する人たちによって、誤った使われ方が広まりつつあります。
もうひとつの例証をみてみましょう。
形容詞は、話し言葉として使われるときに、強調を示す意図で、語尾が変化することがあります。
例:
暑い(あつい)→「あちー」
寒い(さむい)→「さみー」
長い(ながい)→「なげー」
旨い(うまい)→「うめー」
かっこいい→「かっけー」
語幹の最後が「ウ段」だと、「イ段」に変化して長音(伸ばす音)化します。
あ「つ」い(「つ」は「ウ段」)→あ「ちー」(「ち」は「イ段」)
語幹の最後が「ア段」(「オ段」)のときには、「エ段」に変化して長音化します。
な「が」い(「が」は「ア段」)→な「げー」(「げ」は「エ段」)
ちなみに、「おかしい」などの「イ段」の場合には、「おかしー」とのばされるだけですね。
「危うい」のような「ウ段」の場合は、なぜかそのままですね。
さて、「違う」についてです。
耳にされたことのある人も多いと思いますが、現在、「ちげーよ!」(違うよ)という言い方が広まりつつあります。
当然、このような言葉の運用方法は、形容詞の発話システムに準拠しているといえます。
ただ、やはり本来動詞である言葉を強引に形容詞と同じように使おうとしているので、「ちげー」だけでは形や音にともなう「意味」が不安定になってしまいます。そこで、「よ」という終助詞を「重し」に使い、力技で、形容詞の枠にはめようとしているのです。
こうした表現を生み出してしまう人は、「違う」が形容詞であるという感覚にとらわれているため、その音や形を、形容詞に合わせて「変化」させてしまうのです。
前回は、「違くね?」、「違かった」という表現を取り上げ、今回は「ちげーよ!」という表現を取り上げました。
これらの言葉づかいは、当然、日本語の正しい規則に整合したものではありません。
正しくないために、こうした「くだけた」言葉づかいが、年長である親や教師、上司、先輩などから注意されたり、たしなめられたりするのだと考える人もいるかもしれません。
しかし、それは、ちげーよ!
言葉づかいが正しくないためであるというよりも、「くだけた」言葉づかいをしてしまう人間が、ちょっと「みっともない」ためです。
若い世代が新しい言葉を生み出すという営為は、大昔から延々と続けられてきたことであって、ある意味でそれは普遍的な現象です。
日本語も、歴史的に大きく変化してきました。
逆にいえば、目新しいものにすぐにとびついて、その他大勢と一緒に流行を追っかけてしまうような人が、いつの時代にもたくさんいるのだ、ということでもあります。
若い時期に、社会や大人が定めたルールからはみ出ることを「かっこいい」と思ってしまうような人は、どの時代にも割と多くいるものです。
私にも十代の頃はありましたが、そうでなかったといえば嘘になります。
まあ、要するに、わざと「くだけた」言葉づかいをするような人たちは、どこにでもいるということですね。
はっきりいって、そういった心理も感性も、すべて予想どおりで平凡です。
何ひとつ特別なことはありません。
「くだけた」言葉は、ただの、ありふれた、単純で月並みな、個性のない俗物の一人であるというアピールにしかなりません。
もし、必死になって「くだけた」言葉づかいをしている人がいたら、やめたほうがいいと思いますよ。
(ivy 松村)