「学校の勉強が人生の役に立つのか」、という疑問に答えます。
かなり、真面目に答えます。
まず、「役に立つ」ということが、生きるうえで利益につながる、とか、有利になるという意味ならば、学校の勉強を通して習う知識が「役に立つ」ことはほとんどありません。
そもそも、「全員」の人生にとって同じように「役に立つ」ものなど、世の中にはほとんどないのです。
全ての人にとって共通して有意なことを、中学校で教えることはできません。
例えば、会社員になる人、教師になる人、医師になる人・・・それぞれの仕事に必要な技術や知識は同一ではありません。
ですから、職業上で「役に立つ」ものは、もっと後々になって、企業研修や職業訓練によって身につけるのが一般的です。
では、「役に立つ」ことのないものを、なぜ、学ばなければならないのでしょう。
勉強は、生活のための「情報」ではありません。
自分という人間を形作る「資源」です。
世界と、社会と、人間と、自分を深く理解し、自分の価値や生き方を定めるための土台となるものなのです。
「 いい仕事につくために勉強するのだ」という考えもやはりずれています。
私たちは、恵まれた人生を歩むために学ぶのではありません。
より深みのある人生を送るために学ぶのです。
勉強を将来への「投資」であると考える人もいます。
大枠では間違っていません。
しかし、短絡的に、勉強を「人よりもましな人生を送るための手段」であると割り切ってしまうと、勉強はただの「苦行」になってしまいます。
具体的な「夢」に向けて、必要なものとして取り組むのではなく、将来の「就職」のためだけに勉強をしている人をみると、つらそうですよね。
そのような考えにとらわれてしまうと、「関係のないこと」をひたすら覚えさせられているとしか思えなくなるのです。
「どんなきれいごとを言おうと、結局は、勉強は就職のためにするものだ」
という考えかたしかできない人も、世の中にはいます。
思想は自由ですから、そう思っていればいいと思いますが、多くの人が直感するように、その感性は貧しく、知性に乏しいため、簡単にそのような言葉を口にする人は、人間的に低レベルであると思われてしまいます。
具体的な内容でしかものごとに意味づけができず、抽象的な思考によってものごとの価値や本質に迫ることができない、「深み」のない人間であることをさらけ出してしまっているからです。
たぶん、その程度の頭脳しか持てない人は、企業も評価しないと思いますが。
望みどおりの就職ができるのでしょうか。
就職できたとしても、会社内で評価されるような仕事ができるのでしょうか。
勉強は、「得」をするための行いではありません。
損得で考えてしまうと、「得」になるのがずいぶん先のことなので、よほど苦痛になってしまいます。
勉強は、自分という人間を形作るために行うものです。
単語の一語一語、漢字の一字一字、公式のひとつひとつ・・・たとえ、未来にさっぱり忘れ去ったとしても、それぞれが、見えないところで「自分」を構成する要素となっていくのです。
それは、画家の描く絵の一筆のようなものだといえるのかもしれません。
丹念に、時間をかけて、一筆一筆、根気をもって色を重ねていきます。
下書きや最初の構図は、何十にも重ねられた絵具の下にうずめられて、見えなくなっていきます。
でも、その一筆は、絵にとって必要な要素なのです。
画家は、長い長い時間をかけて、キャンバスに絵具を塗りつけていきます。
やがて、ひとつの作品が完成するのです。
(ivy 松村)