「多様性」というものが良いことである、という観念は、極めて現代的なものです。
第二次世界大戦後、「秩序」や「同質性」、「整然とした社会」のイメージは、ファシズムや軍国主義と深く結びつけられ、悪質なものであるとみなされるようになりました。
また、前世紀の後半には、個人の「主体的な生」を抑圧する古い社会因習を打破し、個人は、多様な人生のありかたを自由に選択するべきなのだという考えが広まりました。
これが「リベラル」の思想的ルーツです。
20世紀をとおして、「多様性」は社会の理想的なあり方を示す「キーワード」であるという認識が強められました。
現代、「多様性」という概念は、あらゆる「社会思想」においても「重要な位置」を占めているといえます。
しかし、ここ数年、「多様性」を重視すべきであるという考えが深く浸透したはずの「先進国」で、これに「逆行」するような動きが強まっています。
「多様性」について、少し考えてみましょう。
「多様性」が「有益なもの」であるという「見解」は、社会科学的な観察や考察の中から生まれたものではありません。
おそらく、生物学的な所見がその基底にあります。
よく知られているように、「生態系」における「生物の多様性」は、「自然環境」に強度をもたらします。
社会学という学問の中に、「社会有機体説」、「社会システム理論」といった考え方があるのですが、これらは、生物学をベースにしたものです。つまり、社会学は、古くから生物学に着想を得てきたわけです。
「多様性」を「社会的概念」として導入することは、少なくとも社会学にとってはまったく「自然な発想」であったといえます。
生物学的な知見に重ね合わせるように、「人間社会」にとっても「多様性」が重要であるという考えが、広く普及しました。
「多様性」という概念は、本来「人間社会」を対象とした研究から惹起されたものではありません。
そのため、「人間社会」における「多様性」の議論には、いくつかの見落としがあります。
たくさんの種類の生物が生息する「生態系」のなかで、動植物は「共生」しているというように、説明されます。
それぞれの動物たちは、お互いに気を使いながら、仲よく、ほほえましく暮らしているというイメージを思い浮かべてしまいます。
しかし、実際には、それぞれの個体は、自分が生き延びるために、自分より弱い個体を捕食しようと五感を研ぎ澄ませ、常に機をうかがっているわけです。
弱い個体は、天敵に捕食されないために、神経をすり減らしながら逃げ惑っているわけです。
生物が多様であるということは、別の面では、生存競争が活発であり、苛烈であるということを示唆するはずです。
「生態系」の「実像」から切り離されて、多様な存在が「同居」しているという表面的なイメージだけが共有されるようになると、多種多様な個体が「弱肉強食」の世界でしのぎを削っているというような「リアリティ」が抜け落ちてしまうわけです。
「自然環境」における「生態系」という観点を持つとき、私たちは、自身を「生態系」の「外側」に置いています。したがって、自身を、その中の「多様性」を担う存在として認識していません。
一方、「社会」にとっての「多様性」を考えるとき、私たちは、その社会の構成員であるという前提に立ちます。自身は、「社会」の「内側」に置かれているわけです。
「生態系」に「多様性」は必要か、と問われて、「否」と答える人は、まれです。
自分の生活にとって、眼前の利害と関係しない「議題」を否定する意味はありません。
ところが、「社会」に「多様性」は必要か、と問われれば、それは、たちまち複雑な「議題」となり変わります。
「社会的な多様性」について考えるとき、人は、自分自身が帰属する「コミュニケーションの地平」に「他者」を受け入れるべきかどうか、という「現実」と向き合わなければならなくなるからです。
自分の帰属する社会あるいはコミュニティに「他者」が参入することが、自分にとって「プラス」になるという立場の人は「賛成」するでしょう。
逆に、それが「マイナス」になるという立場の人は「反対」するでしょう。
「多様性」に恩恵を受けている人は、これを肯定します。
「多様性」の恩恵を受けやすいのは、上位の社会階層に帰属する人です。
たとえば、大学のような研究機関や多国籍企業は、多様な地域から有能な人材を集めます。
「開放的」な組織に属し、「多様な背景」を持った優秀な同僚、上司部下と接する機会の多い人は、「多様性」の素晴らしさを享受します。
また、研究者は、世界中の研究者と交流する必要があります。企業は世界中で取引を行い、世界中で製品を売る必要があります。グローバル化を推し進める組織の中では、閉鎖的な思考が育まれる余地はありません。
さらに、スポーツ選手、芸術家、音楽家、俳優、作家等も同様の視点を持つ人が多いでしょう。
ここで、私たちは、現代社会において「多様性」が「社会」にとって良いものであるとみなされていることを思い出します。
一般的に、「多様性」を否定することは不見識な行為であるとみなされます。
「他者」を快く受け入れる寛容な心を示すことが、優れた「人間性」の証であると考えられているわけです。
そこで、私たちは、公に「多様性」を否認するようなことを慎むわけです。
そして、「多様性」を否認していると受け止められるような誰かの言動に触れたとき、即座にこれを咎め、抑え込もうとします。そうすることで、自分自身の器量を誇示することができるわけです。
ひとつの、捨て置かれている「視点」を指摘することができると思います。
すなわち、全員が、というつもりはありませんが、少なくとも一部の「多様性の守護者」は、「多様性」を肯定することで、自尊心を満たしているのだ、といえるわけです。あるいは、自身の人格の高潔さを世間に知らしめようとしているのだ、といえるわけです。そして、多くの場合、「彼ら」は「安全な場所」にいます。しかも、そのことに無自覚です。
さて、今の時代に、「多様性」の「神話」を疑う声が広がりつつあります。
多くの国で、社会的な葛藤が引き起こされています。
それは、ある意味で、社会階層間の相克でもあるわけです。
それはまた、その国の社会の「分断」が進行していることを物語っています。特に顕著なのが、アメリカ合衆国です。
こうして、ひとつの社会の中で、それぞれの人々が、別々の「地平」を生き、別々の「社会観」を持つわけです。
これはある意味で喜劇、同時に悲劇です。
皮肉なことに、「多様性」に否定的な人は、「同質的な社会」を希求しながら、その意思を「同胞」に否定されるわけです。
「多様性」に肯定的な人は、「排他的な人たち」よりも「多様な背景を持つ人々」との親交を大事にします。
さらに、皮肉なことに、「多様性」に肯定的な人は、「多様性」を否定する人々の存在もまた、「多様性」の一部である、という単純な事実に気づきません。
「多様性」を否定する人々を否定することは、「多様性」を否定することになるわけですが…。
(ivy 松村)