前回の衆議院選挙以降、いくつかのメディアでは、若者の「保守化」が進行しているとして、ちょっとした話題になりました。
これは、不正確な認識だと思います。
正しくは、(若者の)「リベラル離れ」が進行しているのです。
若い世代ほど、「リベラル」的な価値観や言論、政策に説得力を感じない人が増えています。
そのために、近年、日本の政治的、社会的形勢から「リベラル」が加速度的に退潮しています。
これは西欧や北米など、資本主義と民主主義が根づいている国々、つまり「先進国」で同時的に進行している現象ですが、日本独自の文脈も存在します。
日本の「リベラル」の言論は、多くの論理的不整合を抱え、自家撞着を起こしています。
私は、これを「リベラルズ・パラドクス」と呼んでいます。
「リベラルズ・パラドクス」に対する「回答」を提示しない限り、「リベラル」は、より衰退することになるでしょう。
日本の「リベラル」の最大の特徴は、「多様性」というものを最重視することです。
さらに付け加えるならば、それは、他の様々な社会的、個的異相を放置し、民族的、文化的な差異のみに、強く焦点化されます。
わかりやすくいえば、「マイノリティに対する寛容さ」という主題に「オールイン」してしまうわけです。
しかも、それは「インバウンド」における「マイノリティ」に結論づけられてしまっています。
たとえば、「金星」では「火星人」は「マイノリティ」です。
しかし、「火星」では、「金星人」が「マイノリティ」です。
「マイノリティ」という「立場」は、相対的なものであって、固定的なものではありません。
したがって、「火星人」は、常に弱い立場の少数者というわけではありません。
「マイノリティ」を気遣い、いたわりながら接することが普遍的な義務であるといえるのであれば、それは「金星人」だけでなく、「火星人」にとっても義務であるはずです。
もし、「金星人」に対しては義務の履行を強く迫る一方で、「火星人」に対しては「目こぼし」を行うのであれば、それは一貫性のない単なる「ご都合主義」にしかなりません。
「『金星人』は『火星人』の気持ちをもっと考えるべきである」などと安易に口にする人がいるわけです。
「彼ら」は、「その逆」もいえるのだということを無視しているか、あるいはそれに無自覚でありつづけます。
このような「片務性」は、現代の日本の「リベラル」が抱えるもっとも顕在的な「パラドクス」です。
もう少し、「リベラルズ・パラドクス」について考えてみましょう。
「国民」とか「民主主義」という言葉は、「絶対的な価値と大儀」を示す「威光」のように扱われます。
「国民が納得しない!」
「民主主義をないがしろにするな!」
というように、「政敵」に対して非難を浴びせる際に用いられるわけです。
いうまでもないことですが、国民は主権者です。
したがって、「多数の日本国民」の意見や感情に寄りそって、政策は施行されるべきです。
日本国籍を持たない「外国人」に対して、「過度の優遇」が行われるとすると、それは「国民主権」の否定になってしまいます。
さて、ここでちょっと「注釈」を。
「こうした議論」には、一抹の懸念があります。「こうした議論」を実直に続けていくと、「苛烈な反応」が生じるかもしれないという憂慮がもたげます。「この時点」で、すでに、私が「マイノリティ」を悪くいっていると受け止めてしまうような、知性に乏しく読解力の貧しい人間が、世の中に存在するわけです。
いうまでもないことですが、私は、「パラドクス」について述べているのです。
議論を戻しましょう。
「民主主義」についても、相似の「パラドクス」が存在します。
つまり、「少数派」に対する配慮が度をこえてしまうと、「民主主義」の否定につながるわけです。
たしかに、「民主主義」の「説明」には、「少数の意見を尊重すること」が付随します。
しかし、「少数意見を尊重すること」は、「少数意見を取り入れること」とは違います。
無知なのか故意なのか、わかりませんが、政治家の中にも、間違った解釈にもとづいて「多数決」を非難する人がたまにいます。
「民主主義」の根幹は、「議論」です。「尊重」というのは、少数意見であっても「議論」の対象とすることが重要であるということなのです。
当たり前の話ですが、少数意見を認めたり少数意見に譲歩したりするような「特別扱い」を許容するとすれば、それは、むしろ健全な民主主義が機能していない状態です。
もし、「少数派」が「少数派であること」を理由として利得を得るようなことがあれば、「民主主義」は崩壊します。
「民主主義」と「少数派の優遇」は、原則として「両立」しません。
つまり、そこには、やはり「パラドクス」が潜んでいるわけです。
最後に、構造的な「パラドクス」について考えてみましょう。
「リベラル」は、「寛容さ」という姿勢と態度を、社会に求めます。
「他者」に対する「寛容さ」が、「多様性」を醸成させるというわけです。
したがって、「寛容さ」というものは、「リベラル」にとって、ある種の「教条的な意味」を持つといえるのかもしれません。
そうすると、「リベラル」は、道理として「不寛容」を放置できないわけです。
つまり、「リベラル」は、原理的に、「不寛容」に対して「不寛容」である、という状態に陥るわけです。
それが、「リベラル」にとって最大の「パラドクス」となっています。
たとえば、「『火星人』を受け入れるな」というような「不寛容」な意見は封じ込めなければならないわけです。
「リベラル」にしてみれば。
ところが、「『火星人』を受け入れるな」という意見も、「多様な意見」のうちのひとつであるといえます。
さらにいえば、「『火星人』を受け入れるな」という意見を認めないという態度は、「不寛容」であるといえるわけです。
念のために再度述べますが、これは「パラドクス」についての説明です。
私自身が、排他的な主張をしているわけではありません。
このような「論」を述べると、「いや、でも社会的に悪影響のある意見は抑止しなければならないのだ」というようなことを反射的に発したくなってしまう人がいます。
そういう人は、「それ自体」が、私の述べていることの一部であるということに永遠に気づきません。
あえて加言すれば、その「無残な鈍感さ」が、「リベラル離れ」の主因です。
私は、「パラドクス」について述べています。
(ivy 松村)