アルファベットの8番目の文字「H」(aitch)「エイチ」についてです。
一応、念のため、いっておきますが、「Hな話」ではありません。
まったくどうでもいい話ですが、私は、授業の雑談の際に、けっこう「雑なアンケート」を取ることがあって、たとえば、「好きな地図記号は?」とか、「好きな部首は?」とか、アホみたいなことを生徒に聞いたりすることがあります。
私の好きな地図記号は「発電所」で、好きな部首は「がんだれ」なのですが、そんな私の好きなアルファベットの文字は、「H」なのです。
しかし、その回答は、何か、誤解されそうで、生徒にもアルファベットのアンケートをしづらいというのが、最近の悩みです。
そんなどうでもいい話はさておいて、「H」についてです。
「H」はかなり特異な文字です。
「H」=「h」についてみていきましょう。
まず、「h」の基本の「役割」ですが、それは、「ハヒフヘホ」の「音素」→[h]を表わすということです。
・hand「ハンド」, house「ハウス」,hundred「ハンドレド」
・heat「ヒート」,hill「ヒル」, hit「ヒット」
・hair「ヘア」 heavy「ヘヴィ」,hello「ヘロウ」,
・home「ホーム」,horse「ホース」,hospital「ホスピタル」
ただし、「ヒュー」になる場合があります。
・human「ヒューマン」,humor「ヒューマァ」,huge「ヒュージ」,humid「ヒューミッド」
「ハヒフヘホ」の音を表示するのは、最も一般的な「h」の使われ方ですね。
「h」は、「黙字」となることもあります。
発音をしない「h」ですね。
・honest「オネスト」
・honor「オナー」
・hour「アワー」
これらは、フランス語に由来する単語です。
英語は、歴史的にフランス語の影響を強く受けています。イギリスがフランスの支配を受けた時代に、多くのフランス語が英語に流入したのです。
フランス語は、「h」を発音しません。
たとえば、“hotel”はフランス語では「オテル」です。
“henry”という名前は、イギリスでもフランスでも人気の名前ですが、英語では「ヘンリー」、フランス語では「アンリ」になります。
日野は「イノ」、八王子は「アシオジ」になります(chiの発音が「シ」になるため)。
「母の日」は「アアノイ」になりますね。
昔、フランスから中国経由で日本に帰ろうとして、旅行会社の窓口でチケットの手配を頼んだときに、受付のお姉さんが、「サンガイ、サンガイ…」とずっと言っていて、「サンガイ」というのはどこだっけ?と、しばらく考えていたのですが思い当たらなくて、「サンガイってどこですか?」ときいたら、「え、サンガイも知らないの?」みたいなリアクションをされて、「ここよ!」って示されたところを見てみると、“Shanghai”でした。
「シャンハイ」は、フランス語では「サンガイ」ですね。
それにしても、フランス語はなぜ、綴りに「h」が用いられているのに、発音されないのでしょうか。
その「原因」は、古代のギリシアで起こった、「h」の発音の消失にさかのぼることができます。
ギリシャ文字(ギリシア文字)は、私たちの知っている西ヨーロッパで使われている「アルファベット」(ローマ字)とは違っているので、ちょっとわかりづらいのですが、たとえば、古代ギリシア語で「歴史」を意味する単語を「ἱστορία」と書きます。
これを「ローマ字」で書き表すと「historia」になります。
これは「ヒストリア」と読めます。
しかし、古代ギリシアで「h」の音がなくなってしまったために、この単語は「イストリア」と発音されるようになります。
こうした「慣例」が後の時代に受け継がれることになるのです。
ヨーロッパ文明の礎となった古代ギリシア文明、その繁栄を担ったギリシア語の語彙は、ローマ帝国に継承され、やがてヨーロッパに伝播していくことになります。
ローマ帝国で使用されていた公用語はラテン語です。
ローマの人々は、古代ギリシア語をラテン語に取り入れる際に、「h」を発音しないという「慣例」も受容したのです。
フランス語は、ラテン語から派生した言語です。
したがって、「h」を発音しないという古代の「慣例」を受け継いでいるわけです。
フランス語では「歴史」のことを「histoire」と書き、「イストワール」と読みます。
「hi」の発音が「イ」となっていますね。
ちなみに、フランス語だけでなく、イタリア語やスペイン語でも「h」は発音されません。
これらの言語は、古代ローマ帝国で使用されていたラテン語を共通の祖先とした同系統の言語です。古代のローマ帝国に起源を持つこれらの言語をまとめて「ロマンス語」といいます。
(念のため、一応いっておきますが、「ロマンス」というのは、うっとりするような情感豊かな物語のこと、ではなくて、「ローマの」という意味です。)
一方、英語の「歴史」は、当然「history」です。これは「ヒストリー」と読みますから、「h」が発音されています。
英語は、「ロマンス語」の系統ではなく、「ゲルマン語」の系統です。
同じく「ゲルマン語」の系統のドイツ語には「歴史」を意味する単語が2つありますが、そのうちのひとつは「Historie」です。これも「ヒストリー」と発音します。ドイツ語にも「h」の発音があるわけです。
ざっくりとまとめると、「ロマンス語」は「h」を発音せず、「ゲルマン語」は「h」を発音します。
「ゲルマン語」の系統である英語やドイツ語は、古代ギリシア語やラテン語に由来する語彙に、「h」の発音を与えて受け入れたわけです。
英語は元来「h」の発音を有しています。
しかし、11世紀以降、イギリスに「ロマンス語」のひとつである「フランス語」が流入します。「h」の音がない語彙は、その際にもたらされたものです。
「フランス経由」でイギリスにもたらされた語彙のうち、フランス語の「語感」が強かった語は、フランスの発音を維持し続け、今日までその発音が踏襲されることになったわけです。
ところで、これはまったくの余談ですが、私は中学のころ、ある女性の英語教師に「history」の語源は「his story」だと教えられました。
要するに、歴史というのは、「“彼の”物語」なのである、と。
その教師は、これは、「歴史」というものが「男」によって作られ、独占されてきたのだということの表れなのであると力説しました。
私はずいぶん長らくその話を信じていましたが、あるときにそれは成り立たないということに気づきました。
ある時期に、ほんの3、4か月ですが、フランス語を学習したことがあって、そのときに「歴史」を意味する「histoire」という言葉に出会ったのです。
明らかにその語は英語の「history」と同根の単語でした。
そのとき私にフランス語を教えてくれていたのはフランス人の教師でしたが、そのことについてちょっと質問してみたのです。
すると、その先生は、ああ、それはいい質問ですね、といって、それら2つの語はともに古代ギリシア語に由来するもので、「his story」という句から「history 」という言葉が作られたというのはただの俗説だということをあっさりと説明してくれました。
まあ、要するにただの「ダジャレ」だったわけです。
しかし、この俗説は、非常に根強く世間に浸透しているようです。
私の身内にオーストラリアに留学していたものがいるのですが、オーストラリアの英語教師が同じことを言っていたそうです。英語のネイティブでさえ、鵜呑みにしているわけです。
今でも、この俗説をせっせと説いている教師が、存在するのでしょう。
この世界が「男性中心」に形作られ、女性が様々な面で抑圧されてきたというのは、「真実」だと思います。当然、世界はよりよく変化するべきだと思いますし、「そのため」に「啓蒙」は必要でしょう。
しかし、その言説が「ダジャレ」によるものでは、台無しだと感じます。
「h」の話をもう少し。
先に、古代ギリシアで「h」を発音しなくなったということを書きました。
しかし、これは特殊な出来事というわけではなく、実は[h]はそもそも無音化されやすい音なのです。
たとえば、日本には「高橋(タカハシ)」という苗字の人や「上原(ウエハラ)」という苗字の人がいますが、よく聞いてみると彼らは「タカーシ」とか「ウエァラ」と呼ばれていることがあります。
[h]の音は、けっこう「弱い音」なので、消えやすいのです。
「アルコール」は、オランダ語を語源とする外来語で、「alcohol」と綴ります。
この綴りは英語と同一です。
オランダ語も英語も「アルコホール」と発音します。日本人も昔は「アルコホル」と発音していましたが、今は「アルコール」と呼んでいます。
現代の英語話者でも、ロンドンの下町やアメリカの方言では、[h]を発音しない話し方がみられます。
その他、「gh」や「th」から[h]の「要素」だけが消失し、「g」や「t」の発音になった語彙もあります。
・ghost「ゴウスト」(幽霊)
・Ghana「ガーナ」(国名)
・Thailand「タイランド」(国名:タイ)
・Thames「テムズ」(ロンドンを流れるテムズ川)
・thyme「タイム」(薬草、香辛料)
あと「exhibition」は「エグザビション(展示会)」と読みますが、これも[h]の音が消えているとみることができますね。
(ivy 松村)