私立中、都立中の入試が終わりました。
おつかれさまでした。
南多摩中の入試問題の分析をしてみようと思いますが、ちょっと。
南多摩中を受けた生徒は、読まない方がいいと思います。
いずれにしろ、間もなく「結果」が出ます。
「塾の人間」は、過去に目を向けます。そういう「習性」なのです。
でも、「受験生」の目は未来を向いていなければなりません。
人生の大きな「節目」を乗り越えて、ひとつ、大きな財産を手に入れました。
明日から中学準備講座です。
さっそく、人生の次のステージの勉強を始めましょう。
まず、「適性検査Ⅰ」です。
「問題1」は第二の自己表現のタイプである「攻撃的自己表現」について記述する問題でした。
「どのように何を守ることですか」と問われているので、
①どのように、
②何を守る
という2つの「要素」を組み込んで解答を作ります。
文末は「~こと。」です。
①ですが、以下の箇所を解答に使えます。
第二段落「自分のことだけをまず考えて行動し」
第十二段落「自分が正しいかのように言い張り、相手を黙らせようとしたり、同意させようとしたりする」
同「自分と異なる意見やものの見方に耳を傾けようとせず」
②ですが、以下の箇所を解答に使うことができます。
第十一段落「自分の言い分や気持ちを通そうとする」
「自分のことだけを考えて行動し、自分の言い分や気持ちを守ること。」
「自分が正しいかのように言い張り、自分の言い分や気持ちを守ること。」
「異なる意見やものの見方を尊重せず、自分の言い分や気持ちを守ること。」
上のような解答であれば、大きく点数を落とすことはないと思います。
「問題2」は「アサーティブな自己表現」における「葛藤が起こる可能性」があるのはどのようなときかを答える問題でした。
解答の文末は「~とき。」です。
「葛藤」という言葉の意味を知らない、あるいは類推できなければ、解答を導くことができません。
解答には、第二十、二十一段落が使えます。
「意見や考えが一致せず、合意が得られないとき。」
いずれ学校から正式な「解答例」が公表されます。
「解答例」はいろいろな「情報」を示唆してくれますが、ちょっと注意しなければならないことがあります。
それは、「解答例」は、決して「的確な解答」というわけではないということです。
実は、都立中や都立高校の「記述問題」の「解答例」は、かなり「ルーズ」に書かれています。
「解答例」とかけ離れた表現で書いても、「内容」と「解答形式」に不備がなければ正解になります。
当たり前といえば当たり前の話ですが、「決まり切った答え」を求めるような入試問題ではないので、「解答」は「特定の様式の文」に収束しないのです。
さらに、学校側が、採点に「幅」を持たせるために、あえて課題文中の言葉を外して「解答例」を作ることもあります。
つまり、自分の解答に使用した「文中の箇所」や「語彙」が「解答例」に近似しているかどうか、だけで「正誤」や「部分点」を判断してはいけないということです。
「解答例」こそが「規範」であると勘違いしてしまうと、正しい筋道の思考が滞ってしまうので、受験勉強が「手詰まり」になってしまうこともあります。
「解答例」にたどり着くためにはどのように考えるべきなのか、というアプローチにこだわりすぎてしまうと、他の「間違っていない考え」も排除されてしまいます。
「解答例」は唯一の「正解」というわけではなく、ひとつの「例」にすぎません。
これは、都立中に限らず、あらゆる入試に挑む受験生が注意しておかなければならないことのひとつなのかもしれません。
「問題3」は「手順」が指示されています。
1 自分の主張を理由とともに、具体的に書く。
2 想定される別の意見を書く。
3 別の意見をいう人の意図をふまえ、歩みよりの提案をする。
人によって意見が分かれる「テーマ」を選ぶ必要があります。
つまり、自分に対する「反対意見」を提示する必要があるわけです。
ただし、それに「反論」するわけではなく、「歩み寄りの提案」をしなければなりません。
①自分の主張「~すべき」
②理由「~ためだ」
③別の意見「~という考えもある」
④別の意見をいう人の意図「~ためだろう」
⑤歩み寄りの提案「~することで、双方が納得できるのではないか」
都立中の「受検」では、「いりたま作文」というのが猛威を奮っていて、かなうのであれば、都立中の先生にどう思われるのか率直な「本音」を聞きたいと日頃思っているのですが、今年の南多摩の問題は、「いりたま崩し」だと思います。
「いりたま」を念頭において、これに依存して作文を書こうとした受検生は、大きく点数を落としたと思います。
都立中の「作文」は、ちょっと読めないところがあって、「いりたま」ががっちりハマる年もあれば、強烈な「いりたま崩し」となる年もあります。
「いりたま作文」というものについて都立の先生方が知らないはずはないので、「いりたま」がハマるような出題がなされたときには、先生方がある種の「諦念」のもとに「いりたま」に迎合したのかな、と思ったりします。しかし、その後、また、「いりたま崩し」が見られたりします。
そのうちだんだん、出題傾向の変化は「意図的なもの」ではなく、単に作問の担当が替わって、当年の担当者が「自分好み」の問題を作っているだけなのかな、と思うようになりました。
(ivy 松村)